阿佐田哲也
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色川大吉」とは別人です。
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色川 武大
(いろかわ たけひろ)
ペンネーム阿佐田 哲也、井上 志摩夫、雀風子
誕生1929年3月28日
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区
死没 (1989-04-10) 1989年4月10日(60歳没)
宮城県栗原郡瀬峰町(現・栗原市)宮城県立瀬峰病院[1]
職業小説家随筆家
国籍 日本
代表作『麻雀放浪記』(1969年 - 1972年)
『怪しい来客簿』(1977年、短編集)
『離婚』(1978年)
『百』(1982年)
『狂人日記』(1988年)
主な受賞歴泉鏡花文学賞(1977年)
直木三十五賞(1978年)
川端康成文学賞(1982年)
読売文学賞(1989年)
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色川 武大(いろかわ たけひろ、1929年昭和4年〉3月28日 - 1989年平成元年〉4月10日)は、日本小説家エッセイスト雀士筆名として阿佐田 哲也(あさだ てつや)ほか、井上 志摩夫(いのうえ しまお)、色川 武大(いろかわ ぶだい)、雀風子などを名乗った。阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。
略歴

東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区矢来町生まれ。祖父の色川圀士は島津家庭尋常高等小学校校長を務めた文部官僚。分家筋に衆院議員の色川三郎兵衛がいる[2]

父親の色川武夫は色川三中の弟・色川御蔭の長男・誠一の子で[3]、40代の若さで退役した海軍大佐であった。武大は父が44歳のときに初めて生まれた長男であった。父は何も仕事をせず、常に自宅におり、家族は軍人恩給で生活していた。また、父は子どもをしかる時は鞭をつかい、98歳の長命を保った。この父親との関係は、色川文学の大きなテーマの一つとなっている。色川が小学校入学の年に弟が生まれる。

学校生活になじめず、小学生時代から学校をサボって浅草興行街に出入りし、映画寄席喜劇などに熱中する。あまりに学校をサボるので塾に通わされたが、そこもサボって寄席に通っていた。

アメリカ映画のスタッフの名前を覚えて各人の社歴を注視したり、実在の相撲の力士や野球選手の名前を書いたカードを作り、サイコロを振って勝敗をつける独自のゲームを考案して一人遊びに熱中したりした。相撲ゲームには20代半ばまで熱中し、以後は実在の競輪選手4000人のカードを作り、それを使ったゲームにも熱中したりした。

1941年旧制東京市立第三中学校(現・東京都立文京高等学校)に進学。1943年からは勤労動員で工場で働くが、ガリ版同人誌を密かに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける。

1945年終戦を迎えるが、無期停学処分のままだったために進級も転校もできず、結果的に中学を中退。父親の恩給が止まったため、生活のため以後5年ほどかつぎ屋闇屋、街頭の立ち売り、博徒などの職を転々とし、アウトローの生活へ身を投じる。

後に執筆した『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」や「女衒の達」さながらのバクチ修行をし、サイコロ博打や麻雀の腕を磨く。稼いだ時は上宿へ泊まり、文無しになった際は野宿をした。このギャンブル没頭時代に、後に彼の人生自身の哲学となる「ツキの流れを読んでそれに従う」「欲張りすぎず、(相撲でいえば)九勝六敗を狙う」などの考えを身につける。

やがて1950年(昭和25年)頃から各種業界紙を転々と渡り歩くようになる。1953年(昭和28年)には桃園書房に入社。事実上アウトローの世界より引退。『小説倶楽部』誌の編集者として藤原審爾山田風太郎のサロンに出入りをする。特に、藤原には「人生の師匠」とまで傾倒していた。

この頃の色川は(本人は「顔も声も悪い」と言ってはいたが)痩身の美男子であった。また山田によると「円形恐怖症」で、リンゴ、卵、ボールなどを怖がり、のちの『怪しい来客簿』では「山が怖い」と書かれている。

この頃から、山田宅や藤原宅で麻雀が催されると自分の番が来るまでに寝てしまい、その度に起こされていたという。なお、麻雀の玄人であったことがばれないよう、トップにはならず「いつも、少しだけ浮く」という麻雀を打っていた。吉行淳之介はその打ち方を見て不審に感じ、のち阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』が刊行された際、「この作者はおそらく色川武大だ」と直感したという。

藤原の主宰する小説勉強会で知り合った当時北海道新聞の記者をしていた夏堀正元が色川を「傑作を書ける男だ」と『中央公論』の笹原金次郎に紹介した。この頃、夏堀正元の紹介で新日本文学会にも入会[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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