阿久悠
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阿久 悠
出生名深田 公之
別名多夢 星人
生誕
1937年2月7日
出身地 日本
兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町鮎原)
死没 (2007-08-01) 2007年8月1日(70歳没)
日本
東京都港区西新橋東京慈恵会医科大学附属病院[1]
学歴明治大学文学部卒業
ジャンル歌謡曲
職業作詞家放送作家小説家
活動期間1964年 - 2007年

阿久 悠(あく ゆう、1937年〈昭和12年〉2月7日 - 2007年〈平成19年〉8月1日[2])は、日本放送作家詩人作詞家小説家

本名は深田 公之(ふかだ ひろゆき)[3]

淡路島兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原)出身。
来歴・人物

ペンネームの由来は、広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、兼業禁止の会社にばれないよう“悪友”をもじった筆名として使い始めた事から。深く考えずにつけたため、いずれは別の筆名にするつもりだったが、仕事が途切れなかったので、独立後も使い続けた[4]。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する[5])。長男は作曲家の深田太郎で、阿久作詞・深田作曲の楽曲も存在する。

両親とも宮崎県児湯郡川南町出身[6]

幼少期は兵庫県警警察官であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。都志町立都志小学校卒業[7]都志町立都志中学校一宮町立江山中学校五色町立五色丘中学校卒業[8]し、兵庫県立洲本高等学校卒業(同級生に京都大学教授の木曾好能料理研究家の為後喜光などがおり[9]、在学中に野球部が選抜高等学校野球大会で優勝する。)、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に故郷の宮崎に戻ったという[6]

1959年(昭和34年)に広告代理店宣弘社(現在の電通アドギア)へ入社する[10]。元々は映画脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家伊上勝が課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」と言われて、振られた仕事はCM絵コンテ描きだったという。絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のためにここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を書かせてもらえるものだと思っていたという。

また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画同棲時代』や『修羅雪姫』で名を馳せた「昭和絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し[10]放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。作詞家としての処女作はザ・スパイダースグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)[11]。初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」(1966年(昭和41年)11月発売)[12]。本格デビューザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年(昭和42年)11月5日発売)[13]。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという[14]。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、1968年(昭和43年)に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした阿久の作詞作品となった[13]。また、この頃より死去までオフィス・トゥー・ワンに所属する。

その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲演歌アイドル歌謡曲フォークソングコミックソングアニメソングCMソングと幅広い。さらには日本テレビオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、このスタイルは「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と阿久が提案したものである。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。

上記の作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである」との言葉を遺す[要出典]。

1980年代に入りニューミュージックの歌手が台頭し、彼等のつづった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である松本隆秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる[注釈 1]。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。

直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。


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