阪鶴鉄道
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阪鶴鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
兵庫県河辺郡伊丹町[1]
設立1896年(明治29年)4月[1]
業種鉄軌道業
代表者取締役社長 田艇吉[1]
資本金4,000,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1907年(明治40年)現在[1]
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阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、尼崎から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、およびその路線を運行していた鉄道会社である。
概要

尼ヶ崎(後の尼崎港) - 池田(現在の川西池田近傍)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西業茂(小西新右衛門)らが大阪財界人と結んで、軍港として発展が見込め、日本海側の主要都市の一つであった舞鶴と大阪を結ぶ鉄道を計画。1893年(明治26年)8月に大阪 - 神崎 - 池田 - 三田 - 福知山 - 舞鶴間の鉄道敷設免許を出願。12月には福知山 - 和田山 - 八鹿間の支線敷設免許も出願した。1895年(明治28年)、正式に会社組織として設立、本社は大阪市北区曾根崎に置かれた。しかし、同じく舞鶴への鉄道敷設を競っていた京都鉄道京都 - 綾部 - 舞鶴間の仮免許が下りたため、阪鶴鉄道には福知山 - 舞鶴間は下りなかった。また、神崎(現JR尼崎) - 大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で仮免許が下りなかった。その結果、仮免許を得たのは神崎 - 福知山間だけであった。1897年(明治30年)2月に摂津鉄道を合併し、12月に池田?宝塚間が開業。1898年(明治31年)6月に塚口 - 官鉄線神崎間が開業し、9月に官鉄線に乗り入れて大阪まで直通運行1899年(明治32年)には宝塚以北が1月に三田、3月に篠山(現在の篠山口駅)、5月に柏原と順次延伸され、7月に福知山南口(のちに廃止)まで開通した。この頃本社を伊丹町(現伊丹市)、次いで登記上の本社を川西市寺畑村8番地の1に移転。

ところが、阪鶴鉄道が接続するはずの京都鉄道は保津峡区間の難工事で資金不足に陥り、園部 - 舞鶴間が開業していなかった。このため阪鶴鉄道は1899年(明治32年)12月に改めて福知山 - 八田 - 舞鶴および宮津間の鉄道敷設を申請したが、却下された。このため阪鶴鉄道は宮津まで由良川による舟運を計画する。1901年(明治34年)12月(諸説あり[2][3][4][5])に福知山南駅より人力車を使い蛇ヶ端(じゃがはな)乗船場まで行き、そこから川船で河守まで、さらに由良までは「由良汽船」を設立し、第一由良川丸[6]と第二由良川丸[7]を建造し、輸送。舞鶴方面は途中の藤津から、宮津方面は由良よりそれぞれ人力車で連絡した[8]

1901年(明治34年)10月1日には海軍舞鶴鎮守府が開庁するが、京都鉄道による舞鶴延伸が望めないことから1902年(明治35年)4月に免許は取消となり、政府が官設鉄道として敷設することとなった[9]1904年(明治37年)11月に新舞鶴 - 福知山間が開通すると、あわせて阪鶴鉄道も福知山南口 - 福知山間を開通させ、官鉄線福知山 - 新舞鶴間を借り受け、ついに大阪 - 舞鶴間の直通運行が実現した。そして、丹波若狭地方との連絡のため、舞鶴より宮津小浜などへの鉄道連絡船の運営を開始した。

なお、神崎 - 大阪間の将来の輸送量の増加を予想し、支線として池田 - 大阪間の鉄道敷設免許を受けた。

1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎 - 福知山間の営業を譲渡して庁線となり、JR福知山線の原型となった。また、池田 - 大阪間の鉄道敷設免許は国有化直前に失効したが、計画は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となった。

東京都品川区の東品川公園[10]には、アメリカ合衆国ピッツバーグ・ロコモーティブ・アンド・カー・ワークス社から輸入され、阪鶴鉄道12、13として使われていた機関車が保存されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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