阪田 寛夫(さかた ひろお、1925年10月18日 - 2005年3月22日)は、日本の詩人、小説家、児童文学作家である。大阪府大阪市生まれ。小説・詩・作詞など幅広く執筆。 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた[1]。寛夫の祖父・阪田恒四郎が38歳の時、広島から大阪に出て興したのが阪田インキ製造所(後のサカタインクス)[1][2][3]。寛夫の父・素夫は同社の二代目社長であった[4]。600坪の屋敷で3人兄弟の末弟として育つ。 熱心なキリスト教徒の家庭に育つ。母・京は同志社女子専門学校英文科の卒業生で、アメリカから来た教師に西洋料理をたくさん学んだハイカラな女性だった。小学生時代、親族・周囲に宝塚ファンが多かったため自身も幼いころより晩年まで宝塚歌劇に親しむ。 帝塚山学院小学校・大阪府立住吉中学校から旧制高知高等学校を経て東京帝国大学文学部美学科に入学、在学中に三浦朱門らとともに同人誌を創刊。国史科に転じて1951年(昭和26年)大学を卒業後、朝日放送[注 1]に入社し、主にラジオ番組のプロデューサーとして制作に携わる。その後、編成局ラジオ制作部長、東京支社勤務を経て1963年(昭和38年)に朝日放送を退社[5]。 「音楽入門」で小説家としてデビュー、1975年(昭和50年)に小説『土の器
来歴・人物
童謡「サッちゃん」「おなかのへるうた」「ともだち讃歌(リパブリック讃歌)」「誰かが口笛ふいた(フランスのサンブル・エ・ミューズ連隊行進曲 Le Regiment de Sambre et Meuse)」「そうだ村の村長さん」などの作詞者としても知られる。先の2篇は大中恩によって作曲された。また、NHK全国学校音楽コンクールのために「かたつむりのうた」や「君は夕焼けを見たか」などを作詞した。
文壇関係者では野坂昭如[注 2]・矢代静一[注 3]に並ぶ男性宝塚ファンであり、実の娘・大浦に対しても「娘だからこそ」一評論家として公正・中立な視点、厳格な記述を通した。また、芥川賞作家の庄野潤三とは小中学校で同級生であり、朝日放送でも同僚となるなど親交が続いた。旧制高知高校で同級生だった三浦朱門とも、生涯に渡って家族ぐるみで親交を持った。
2005年3月22日午前8時4分、肺炎のため死去(79歳)。 祖父はサカタインクス創業者・阪田恒四郎[1][2][3]。長女は詩人・作家の内藤啓子、次女は元宝塚歌劇団花組トップスターの大浦みずきである[7]。
親族
作品