阪東妻三郎
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2016年9月)

ばんどう つまさぶろう
阪東 妻三郎

本名田村 傳吉
別名義沢村紀千助
阪東藤助
阪東要二郎
岡山俊太郎
生年月日 (1901-12-14) 1901年12月14日
没年月日 (1953-07-07) 1953年7月7日(51歳没)
出生地 日本東京府東京市神田区(現・東京都千代田区
死没地 日本京都府京都市
身長172cm
職業俳優
ジャンル映画
活動期間1918年 - 1953年
著名な家族長男:田村高廣
次男:田村俊磨
三男:田村正和
四男:田村亮
婚外子:水上保広
孫:田村幸士
主な作品
雄呂血
無法松の一生
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阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年明治34年)12月14日 - 1953年昭和28年)7月7日)は、日本歌舞伎俳優、映画俳優。本名:田村 傳吉(たむら でんきち)、サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。
概要

大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ[1]。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられる。

大河内傳次郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[2]
来歴

1901年(明治34年)12月14日土曜日)、東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。
歌舞伎界へ

1916年(大正5年)、旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め、16歳で成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払いされた。

落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される。

仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった。

1918年(大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る。

下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる。
映画界へ

1919年(大正8年)、国際活映(国活)の沢村四郎五郎一派のエキストラに出演。日給1円20銭だった。伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を活動写真界に見出し、3月ごろから「阪東藤助」を名乗り、沢村四郎五郎、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた。

1920年(大正9年)、6月に松竹キネマ蒲田撮影所が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした森要がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りし、全く無名のまま脇役を過ごす。国活では「阪東要二郎」を名乗り、7月には『島の塚』(枝正義郎監督)に仕出し役で出演している[3]環歌子は当時の阪妻について、「大勢のエキストラの中でも大変目立ってすぐわかりました。痩せて非常に背が高く、首一つ出ている感じで色が白いのを通り越して青い様な感じでした」と語っている。
再び歌舞伎界へ

1921年(大正10年)、活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、中村吉松を募って撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と武田勝頼を演じた。

前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった。

1922年(大正11年)、22歳の春、仕打ちの失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた。
マキノ・プロへ

1923年(大正12年)2月、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役である宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻に目を留める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、中村吉松と京都入り、マキノ・プロダクションに入社[4]

マキノ・プロに月給60円の大部屋俳優として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった。

1924年(大正13年)、正月映画『火の車お萬』で環歌子との共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり、『怪傑鷹』(二川文太郎監督)で高木新平の相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる[5]

続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、尾上松之助版を圧倒する評判を得た[6]

ちょうどたまたま同じ下宿に、「ペラゴロ」と呼ばれる浅草オペラの熱狂的なファンで、阪妻と同じく浪人の身である脚本家の寿々喜多呂九平(『怪傑鷹』の作者)がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる。

『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。


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