阪東妻三郎プロダクション(ばんどうつまさぶろうプロダクション、1925年9月 設立 - 1936年12月 解散)は、かつて京都府、のちに千葉県の東京湾岸に存在した映画会社である。 阪東妻三郎プロダクションは当時の若手人気俳優阪東妻三郎が設立し、日本初のスタープロダクションであり、また当時なにもなかった「太秦」の地に初めて撮影所を建設、130本以上の映画を製作した。1927年(昭和2年)に株式会社化、1931年(昭和6年)からの正式社名は大日本自由映画プロダクション(だいにっぽんじゆうえいがプロダクション)であった。 20歳前後から大部屋俳優として苦労してきた阪東妻三郎は、1923年(大正12年)10月、牧野省三のマキノ映画製作所が製作した寿々喜多呂九平オリジナル脚本による『鮮血の手型』で名を上げ、21歳でスター俳優となった。同社の東亜キネマへの合併後も牧野のもとで活躍していたが、1925年(大正14年)6月、牧野の東亜からの独立、マキノ・プロダクションの設立とともに、同年9月に阪東も独立、「阪東妻三郎プロダクション」を設立した[1]。阪東妻三郎23歳のときのことである。 記念すべき設立第1作は、牧野の総指揮、寿々喜多のオリジナル脚本による二川文太郎監督の『雄呂血』であったが、マキノ・プロダクションの御室撮影所はまだ建設途中であったため、東亜キネマの等持院撮影所で撮影された。阪東と東亜の契約はまだ残っており、その都合上、第2作『異人娘と武士』を第1作としてリリースせざるを得なくなった。『異人娘と武士』は、マキノ・プロダクション設立に呼応して、東京の高松豊次郎 第3作、志波西果オリジナル脚本による監督作『魔保露詩』は、奈良にある中川紫郎の中川紫郎プロダクションの撮影所で撮影、つづく1926年(大正15年)初頭の志波オリジナル脚本による監督作『尊王』も東京の吾嬬撮影所で撮影していたが、撮影中に松竹キネマからの交渉を受け、同作から松竹キネマが配給することとなった。第5作にあたる志波オリジナル脚本による監督作『素浪人』は、京都の松竹下加茂撮影所で撮影された。 また同年9月、同社は、米国ユニヴァーサル社のため映画製作を行なう旨の契約を同社と交わした。「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」を設立、同年10月にはハリウッドからのスタッフと機材が太秦撮影所に運び込まれ、翌1927年(昭和2年)1月に設立第1作が公開された。しかし、阪妻プロと松竹キネマとの契約上、ユニヴァーサル社が望む「阪東妻三郎主演作品」が1作もなかったため、同年5月末には契約解除となり、訴訟にまで発展した[2]。「太秦撮影所現代劇部」は解散した。詳細は「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」を参照 同年(昭和2年)12月末に同社は組織変更をして「株式会社」となり、立花が専務取締役、阪東は取締役に就任したが、代表取締役社長をはじめとして経営はほとんど松竹に握られ、同社は、松竹傘下のプロダクションとなってしまう。阪東主演作だけでなく、草間実
概要
歴史
マキノとの共闘
太秦初の撮影所[1]がスポンサーとなり、「合名会社一立商店阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設した。当時、「葛野郡太秦村」と呼ばれたその地域は一面竹の生い茂る藪であり、それを切り開いたのが阪東であり、太秦の地に初めて「撮影所」を立てたのが阪東妻三郎プロダクションであった。
1928年(昭和3年)1月、阪東の現代劇主演第1作として『霊の審判』の撮影を開始した。立花良介が総指揮を執り、阪東が総監督となり、伊藤好市が「朝日新聞」に連載した写真物語を江川宇礼雄が脚色、枝正義郎が監督するという異色の大作であったが、阪東の相手役に起用した松竹蒲田撮影所のスター女優龍田静枝が途中で病気休養となり、撮影は中止、同作は文字通りの「未完の大作」となった。この中止決定は当時「本年度の痛恨事」といわれた[3]。
1929年(昭和4年)、松竹は阪東作品の予算を押さえ込み、製作本数を9本に絞った。そこで同プロダクションはすべて阪東主演作に切り替え、最後の9本目は、阪東自身が監督するに踏み切った。「岡山俊太郎」名義による阪東妻三郎監督・主演作『石松の最期』は、1930年(昭和5年)1月10日に公開された。
しかし、この間の度重なる松竹の冷遇を糾弾する声明を発表するとともに、同年6月26日付で阪東は松竹を脱退した。太秦撮影所を松竹に明け渡し、同撮影所は「松竹太秦撮影所」と改称された。同撮影所での最後の作品は犬塚稔監督の『からす組』前・後篇で、それぞれ同年5月9日、6月13日に松竹配給で公開された。
東京ベイエリアの撮影所大日本自由映画プロダクション、谷津海岸、1931年 - 1935年。
1931年(昭和6年)1月、阪東は「大日本自由映画プロダクション」を設立、京成電鉄が提供した千葉県千葉郡津田沼町谷津海岸(現在の習志野市谷津)の塩田地帯の約5万平方メートルの土地(のちの谷津遊園)に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」を建設した。