阪急百貨店
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株式会社阪急百貨店
Hankyu Department Stores, Inc.大阪梅田ツインタワーズ・ノース(旧:梅田阪急ビル)
2009年9月3日、同ビルの地上12階-地下2階に新店舗・第一期分が先行開業。
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
530-0012
大阪府大阪市北区芝田2丁目6番27号(阪急百貨店香養会館)[1]
本店所在地530-8350
大阪府大阪市北区角田町8番7号
設立2007年平成19年)10月1日
業種小売業
事業内容百貨店業
代表者新田信昭(代表取締役社長)
資本金50億円(2007年10月1日現在)
従業員数2,895名
決算期3月末日
主要株主エイチ・ツー・オー リテイリング 100%
関係する人物小林一三(創業者)
野田孝(元社長、会長)
外部リンク ⇒阪急うめだ本店(阪急百貨店)
特記事項:上場会社である(初代)株式会社阪急百貨店(1947年3月7日設立)が純粋持株会社エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社」へ移行するのに伴い、新設の当社が阪急百貨店の事業を承継。
2008年10月1日付で株式会社阪神百貨店と合併し、株式会社阪急阪神百貨店に商号変更。
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阪急百貨店(はんきゅうひゃっかてん)は、エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社(阪急阪神東宝グループ)傘下の株式会社阪急阪神百貨店が運営する日本の百貨店

また、株式会社阪急百貨店(英語: Hankyu Department Stores, Inc.)は、2008年9月30日までこれを運営していた企業である[2]2006年の「阪急・阪神経営統合」を契機として、もともとライバルであった阪神百貨店と経営統合を行い、阪急阪神百貨店による運営となった。

創業者は阪急電鉄の実質的創業者であり関西財界の雄と言われる小林一三で、大阪の梅田本店を置く。この阪急百貨店うめだ本店はエイチ・ツー・オー リテイリングの旗艦店であり、日本国内では東京の伊勢丹新宿店に次ぐ売上を誇る。

なお法人としての株式会社阪急百貨店は、次の2つが存在した。

初代法人:1947年3月7日 - 2007年9月30日。現在のエイチ・ツー・オー リテイリング株式会社。

2代目法人:2007年10月1日 - 2008年9月30日。2008年10月1日付で株式会社阪神百貨店と合併し、株式会社阪急阪神百貨店となった。

歴史・概要
創業から第2次世界大戦まで1936年(昭和11年)の雑誌広告

1920年11月1日に、5階建ての阪急梅田ビル1階に東京日本橋の老舗呉服店系百貨店・白木屋を招致して[3]白木屋梅田出張店が開店した[4]。55坪の店舗で食料品や日用雑貨の販売を行わせ[5]、11月5日[6]、2階に阪急直営である大衆食堂の阪急食堂を開設したのが始まりである[4]

この白木屋の店舗を売上歩合制の家賃として売上実績のデータを入手し[7]、そのデータから梅田駅(現在の大阪梅田駅)でのターミナルデパート(=ターミナル駅直結の百貨店)の可能性を固く信じた小林一三は[7]、契約期間満了を理由に白木屋との契約を解除して1925年6月1日に阪急梅田ビル2・3階に[3]自社直営の食料品や生活雑貨中心のスーパーに近い形態[8]の阪急マーケット[3]、4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し[9]、直営でのターミナルデパートの第一歩を踏み出した[8]

その後、梅田駅ビルを地上8階地下2階に全面改築して大幅に拡張し[8]、敷地面積328坪で延べ床面積3,280坪[10]という百貨店に相応しい規模の店舗を作って1929年4月15日に鉄道会社直営の電鉄系百貨店として阪急百貨店を開業した[3][11]

この開業は、1926年に現・近鉄大阪上本町駅に設けられた三笠屋百貨店に続く二番目のターミナルデパートであり、[12][13]日本初の鉄道会社が経営するターミナルデパート[8][14](ターミナルデパートは欧米にない日本独特のもの[10]のため同時に世界初となる)でもあった。東急百貨店など全国の大手私鉄が阪急百貨店に倣ってターミナルデパートを設置し、民営化後のJRもジェイアール名古屋タカシマヤジェイアール西日本伊勢丹など既存大手百貨店と協力して百貨店を出店するなど、その後の鉄道会社の経営手法(=多角化)に対して大きな影響を与えた。鉄道会社が百貨店を自ら経営する以外にも、南海難波駅南海ビルディング)の島屋大阪店(本店)やJR博多駅JR博多シティ)で当社が運営する博多阪急など、駅ビルキーテナントとして百貨店を誘致する例もある。

開業直前の1929年4月13日・14日掲載の開店新聞広告に「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」とのコピーを入れた[4]ように開業当初は大衆向けの路線を採り[15]、沿線の行楽に向かう人々への弁当販売を手がけるなど、今日のターミナルデパートの雛形となった存在としても知られる。

経営の中心であった[4]7・8階の大食堂は[8]、高層階からの眺望や食券方式などの目新しさにより、人気を博した[16]。看板メニューとして当時高級品だったライスカレーをコーヒー付き25銭で提供するなど、ランチも名物として話題となった[4]

開業直後に襲った昭和恐慌の時代に、ライスのみを注文してテーブルに備えられていた[17]ウスターソースをかけただけで食べるソーライスが流行した[18]際は、他の店舗[18]や当店の大食堂の店員が締め出しを図ろうとした[17]。しかし、創業者の小林は「今は貧しいが、やがて結婚し子供ができる。その時ここでの食事を思い出し、家族で来てくれるだろう」と考えて「ライスだけの客歓迎」と張り紙をさせ[17]、福神漬けまで付けて提供する[18]など、話題となった。

開業当初は雑貨の品揃えは悪くなかったものの、知識や経験の不足により呉服類が見劣りがして駅の賑やかさゆえにやや落ち着かないとされ[19]、売上高も1日平均約2万円だった[10]。しかし、1931年11月に敷地面積628坪で延べ床面積6,191坪として1日平均3.1万円の売上を上げ[10]1932年12月に延べ床面積12,000坪で1日平均5万円の売上[10]へと阪急梅田ビルの増築工事を完成させて増床を行って[3]大衆路線が受けたことと合せて売上を順調に伸ばし[15]1936年に阪急梅田ビルの第4期増築工事が完成して[9]売り場面積53,435m2にまで拡大した[20]

1932年12月の増床時に古美術品売場と茶室福寿荘開設が行われるとともに大阪で指折りの古美術店10店を集めて組織した充美会を結成してノウハウの不足を補って美術品の取り扱いの第一歩を踏み出した[15]

1934年9月に洋家具売場の一角に洋画陳列場を開設して春秋会洋画展を開設して洋画の取り扱いを始めるなど比較的早くから美術品の取り扱いを充実させていった[15]

1937年発行の機関誌「阪急美術」1号は、小林が「買つて置いて必ず損のないもの」と記述するように、これら美術品の販売でも百貨店全体の大衆路線が展開され、サラリーマンが購入できる美術品が取り扱われた[15]

1934年に直営製菓工場とアイスクリーム工場を開設して自社ブランドの菓子類の販売に乗り出す[4]など開業が比較的早い時期から食品関連の自社生産を開始するなど、食堂から発展した百貨店[9]らしい事業展開も行った。

一般の小売店による百貨店規制運動に対応して1933年4月20日に創立総会を開催した。設立の認可申請をした日本百貨店商業組合に当店も設立時から参画していて[21]、同組合は支店や分店の新設を制限する営業統制案を設立総会前日の19日に決定していた[22]

この日本百貨店組合による営業統制規程第三条を受けて、そごうは阪神元町食堂の営業委託がその規定に抵触するとして断った[23]。それにも関わらず、阪神急行電鉄は駅に食堂を付属させることは当然認められるサービスだと主張して神戸・三宮に建設していた駅ビルへの食堂設置[23]などを強行し、1936年4月11日に阪神急行電鉄神戸駅に完成した神戸阪急ビル内に神戸支店を開業して多店化に乗り出した[4]

1937年5月1日に豊中駅構内東改札口に配給所という小型店を開業した。同所で受けた注文を直ちに梅田の百貨店に連絡し、30分ごとに電車便を使って商品を配送して受注から1時間後に商品を届けた。これが好評だったため、同年12月4日までに同様の店舗を住吉、芦屋、帝塚山など合計38ヶ所展開して沿線での需要に応えた[5]

1938年1月1日に施行された百貨店法(第1次)により禁止されるまで、鉄道利用者の利便性を考慮して夜間営業も行ったが、同法により午後7時までに営業時間が規制されて夜間営業を廃止した[24]


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