阪和電気鉄道
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阪和電気鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
大阪府大阪市天王寺区悲田院町93[1]
設立1926年(大正15年)4月24日[2]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、自動車事業 他[2]
代表者社長 平松憲夫[1]
資本金20,000,000円(払込額)[1]
発行済株式総数400,000株[1]
主要株主

東邦電力 10,000株[1]

谷口豊三郎 7,100株[1]

高取鉱業 7,000株[1]

近江岸辨之助 5,500株[1]

上山勘太郎 5,500株[1]

吉村秀治 5,050株[1]

特記事項:上記データは1940年(昭和15年)現在[1]
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阪和電気鉄道線

路線総延長62.8 km
軌間1,067 mm
電圧1,500 V架空電車線方式直流

阪和電気鉄道(はんわでんきてつどう)は、昭和初期の関西鉄道会社。現在のJR西日本阪和線を建設した。

1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1940年南海鉄道に合併された。

営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。
概要
開業の経緯

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京阪電気鉄道の阪和間参入

京阪電気鉄道は大正 - 昭和初期にかけ、岡崎邦輔(第3代)・太田光?(第4代)と2人の社長の下で、有力政党・立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として和歌山進出を目論み、1922年には和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気を買収して自社の和歌山支店とした[注釈 1]。そしてこの延長線上で、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪 - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。

この電鉄路線計画は、元々和歌山以南の紀伊半島沿岸を自社航路の勢力範囲とし、来るべき将来における国鉄紀勢線の全通で打撃を受ける大阪商船、南海鉄道だけでは地元の将来的な潜在貨物輸送需要を賄いきれないと判断した泉州地域の綿業資本家、大阪方面における安定的な電力消費先を欲していた大手電力会社の宇治川電気(後の関西電力)、それに和歌山の有力者達が合同して立案したものであり、最初の出願は1919年に行われている。

京阪の正式な参加は、建設計画が本格的に具体化し、会社が設立された1926年4月24日以後のことであった。もっとも、1920年内閣による南海鉄道国有化失敗後、この案件に仲介役として介入していた京阪は阪和電鉄の出願者グループと緊密な関係にあった。そのため、阪和電気鉄道線の免許取得に当たっては政治的な工作をこのグループから依頼されており、単純な株式引き受けに留まらない、複雑な経緯を経た末の資本参加であったことが伺われる[注釈 2]

京阪の起業参加に際しては、同社による和歌山方面の電力供給が約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われている。他の設立メンバーには鉄道経営の経験者がほぼ皆無であったことから、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなった。
建設過程

当初は、新京阪線同様の規格で、高速運転に有利な1,435mm軌間での建設も考慮されていた。この当時、鉄道省は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄紀勢線[注釈 3]は、接続する路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した[注釈 4]。この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄や南海と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの貨車直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利[注釈 5]であった。

既存の南海鉄道が大阪湾岸の紀州街道および孝子越街道国道26号)沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道はそれよりやや内陸寄りの農村地帯を通る熊野街道(現・大阪府道30号)沿いに敷設され、極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた。また、和泉山脈越えでは南海が避けた紀州街道の雄ノ山峠越えを選択し、距離の短縮に努めている。架線電圧も、路面電車並の低圧な直流600Vであった南海に対し、当初からより効率が良く高速向けの直流1,500Vとされた。電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店からそれぞれ供給を受けた。

しかし、国鉄線との連絡という付帯条件によって大阪側起点用地の確保は困難をきわめた。当初は大阪市南区木津大国町(現・浪速区大国1・2丁目)、今宮駅の南東付近を予定した起点は、都市部ということもあって用地買収に難渋し、最終的に旧・南大阪電鉄が取得し、当時大阪鉄道(2代目。後の近鉄南大阪線の前身)が所有していた国鉄天王寺駅駅舎東側(ホーム北側)の台地上に確保された。

だが、この起点決定により、阪和電気鉄道線には鉄道省城東線関西本線、大阪鉄道本線、それに南海平野線の4つの既存鉄軌道を立体交差する必要が生じることになった。そのため、線形維持の必要性もあって、南田辺以北の約2.7kmの区間において高架構造の採用を強いられた。この高架橋は、大正時代末期以降、日本でも採用例が見られるようになった鉄筋コンクリート製で、八角形の断面を持つ橋脚を一部に採用するなど、特徴的な意匠を備え、大林組の施工になるものである。大林組はこれ以前に、関西の鉄道用鉄筋コンクリート高架橋の嚆矢となった、新京阪鉄道天神橋駅付近の高架工事や、奈良電鉄桃山御陵前周辺の高架工事などを手がけていた。

1929年7月18日、阪和天王寺(現、天王寺) - 和泉府中間と - 阪和浜寺(現、東羽衣)間で部分開業。翌1930年6月16日、阪和天王寺 - 阪和東和歌山(現、和歌山)間を全線開業した。

なお、当初の計画では浜寺支線(1926年3月4日免許出願)と同時に、粉河支線(山口[注釈 6] - 粉河間8マイル40チェイン)が単線で出願されていた。しかし財政難から、未着工のまま南海合併後まで棚上げされ続け、太平洋戦争開戦に伴う資材不足で本線の運行維持さえ困難になり、建設の見通しが全く立たなくなったことから、結局1942年7月28日付で免許失効となっている。
高速列車の運行
大型高速電車

1929年の開業当初より、狭軌鉄道としては当時日本最大級の強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施した。

大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行うという、アメリカのハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプトそのものは、1927年に開業した京阪傘下の新京阪鉄道(現・阪急京都本線)と共通のものである。アメリカのインターアーバンは自動車に押されてすでに衰退期に入っていたが、シカゴ都心への直通のために線形や車両規格の改善を図ったノースショアー線サウスショアー線など、大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図ったケースがあり、これに倣ったものと考えられる。

主力車となった全長19mの大型電車モヨ100形・モタ300形等は、腰高で屋根が高く、窓も小さく、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。実際に極めて頑丈な構造で、電動車では公称値で47t - 48tもの超重量級に達したが、電動車1両あたり600kW(800日本馬力)という大出力はそれを補って余りあるものであった。この系統の電車群は1937年までに合計48両が製造されている。

その電装品は東洋電機製造製の国産品で、当時の電車用としては日本最強クラスの定格出力149.2kW(≒200馬力)を発揮する大出力モーターをはじめ、極めて高度な仕様であった。自動空気ブレーキは、アメリカウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(Westinghouse Air Brake Co.:WH社/WABCO。現・ワブテック社)が設計した長大編成対応ブレーキ(U自在弁)を採用したが、当時の日本の電車が通常でも最長4両編成程度が限度だったところ、阪和ではこのブレーキの採用によって6両編成以上を可能[注釈 7]として いった。

これらのスペックは軌間の相違こそあったものの、新京阪鉄道が開業時に投入した大型大出力電車P-6形(デイ100形)とおおむね共通で、経営および技術の両面における京阪の影響の強さを推察できる。
高規格軌道・貨物列車対策

当時としては未曾有の優等列車の超高速運転を実現するため、電車自体の性能強化以外にも可能な限りの方策が講じられていた。

この高速電車の性能を十分に活かすため、軌道設備も現在の大手私鉄幹線と同等の50kg/m相当の重軌条[注釈 8]を採用し、37kgレールを使用していた当時の国鉄東海道本線以上という破格の高水準を実現した。架線輸送密度の関係からかコンパウンドカテナリ[注釈 9]の導入こそ見送られたが、それでも通常構造ながら重い架線を用いたシンプルカテナリが採用され、最高速度100km/hオーバーの高速運転への備えは万全であった。

また線内には貨物列車も運行されることになったが、電車列車のダイヤ組成の障害とならないよう、専用機関車として駿足な本線用電気機関車ロコ1000形を新規に開発した。そして、同機が牽引する貨物列車は後続の電車列車に追いつかれないよう、軽量な短編成による高速運転を行って待避駅に逃げ込ませることを前提とした運用が組まれていた。
ノンストップ超特急

和歌山までの開業当初は、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2kmを「急行」(途中鳳駅にのみ停車)が65分、「直通」(普通列車のうち阪和天王寺 - 阪和東和歌山の全区間を走行する列車)が80分で結んでいたが、同年10月のダイヤ改正で急行55分、直通75分に短縮するなど、スピードアップを積極的に行った[3]


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