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鬪鶏神社
所在地和歌山県田辺市東陽1番1
位置北緯33度43分46.93秒
東経135度23分2.08秒
鬪?神社(とうけいじんじゃ)は、和歌山県田辺市にある神社である。旧称は田辺宮、新熊野、新熊野?合大権現。通称:権現さん。 允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。白河法皇の時代には新たに熊野三所権現を勧請した。平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院
目次
1 歴史
2 社殿
2.1 境内社
2.2 境外社
3 文化財
3.1 国の重要文化財
3.2 国の史跡
3.3 国の名勝
3.4 和歌山県有形文化財
4 氏子町
5 交通
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク
歴史
田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参籠し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。
『平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め[1]、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。
このことから「闘鶏権現」や「新熊野?合大権現」と呼ばれるようになったが、明治の神仏分離の際に鬪?神社を正式な社名とした。
1871年(明治4年)、郷社(田辺県)。1873年(明治6年)、村社(和歌山県)。1881年(明治14年)2月、県社。1971年(昭和46年)7月、別表神社に昇格する。
2016年(平成28年)10月23日、第40回世界遺産委員会継続会議において、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された[2]。
なおプロ野球の独立リーグ、BASEBALL FIRST LEAGUE(現・関西独立リーグ (2代目))に2017年(平成29年)より加盟した和歌山ファイティングバーズはこの神社が名の由来である[3]。
湛増と弁慶の像 社殿は6棟あり、それぞれ以下の神を祀る。西御殿速玉之男命・事解之男神
社殿
本殿伊邪那美命
上御殿伊邪那岐命・天照皇大神・宇賀御魂命
中御殿瓊々杵尊命・鵜草葺不合命・火々出見尊・天之忍穂耳命
下御殿火産霊命・弥都波能売命・稚産霊命・埴山比売命