闔閭
呉
第6代王
連環画「魚隠し剣」の闔閭の肖像画
王朝呉
在位期間前514年 - 前496年
都城姑蘇
姓・諱姫光
生年不詳
没年闔閭19年(前496年)
父余昧[1]あるいは諸樊
闔閭(こうりょ)は、中国春秋時代の呉の第6代王。姓は姫。諱は光。闔閭は号。家臣の孫武・伍子胥などの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した。春秋五覇の一人に数えられることがある。闔廬とも表記される。 『史記』呉太伯世家によると、呉の初代王寿夢の長男は諸樊であった。寿夢にはこれ以外に3人の子がおり、中でも末子の季札は賢人として名が高かった。寿夢もそれに期待して季札を王にしたいと願っていた。しかし季札は兄を差し置いて自分が王位に即くことに抵抗し、受けようとしなかった。そこでまず諸樊が王位を継ぎ、その後を寿夢の次男の余祭が継ぐなど兄弟継承の順に続けて、最後に季札に王位が回るようにした。しかし季札は寿夢の三男の余昧から王位を譲られようとした所で、これを拒否して逃亡してしまい、王位は結局、余昧の子である僚へと継承されることになった。 これに光は不満を抱いた。今まで兄弟の間で順番に王位を回してきたのだから季札が王になるのならともかく、季札が王位を辞退した後は順番どおりに諸樊の子である自分が王位を継ぐべきではないかと、判断した。彼はその不満を隠しつつ僚に仕え、将軍として活躍していた。その折、楚より伍子胥が亡命してきて光の野望を察し、暗殺の実行犯に専諸[2]を推薦した。呉王僚12年(紀元前515年)夏4月、光は僚を宴会に招待した。光の命で専諸は僚の元へ魚料理を運び、魚の中に仕込んでいた匕首を持って僚を一突きにして殺し、専諸自身も護衛に殺されたと記されている。このため、王位についた光こと闔閭は専諸の子を卿に任命した。 しかし、『春秋左氏伝』では、寿夢(乗)が逝去し、後を継いだ長男の諸樊(遏)は諸樊13年(紀元前548年)冬12月に楚に討伐し、楚将で巣の牛臣
略歴
王位争い
また、寿夢・季札の逸話に関しては、同様の話が伯夷・叔斉や古公亶父・季歴など多く見られるが、これは兄弟相続・末子相続の風習を儒教的な美談に仕立て上げたものではないかと疑う学者も多い。 光は即位して呉王闔閭となった。伍子胥・孫武などを擁して超大国の楚と何度も対決し、闔閭9年(紀元前506年)の柏挙の戦いでは楚の首都の郢を陥落させる大戦果を挙げた。しかし本国が越王允常によって攻め入られ、さらに弟の夫概が王を名乗って呉を乗っ取ろうとしたため、郢より脱した楚王を追撃せず、慌てて本国へ戻ってこれを平定した[5]。 闔閭19年(紀元前496年)、越王允常が逝去して太子勾践が父の後を継ぐという報告を受け、10年前の恨みを晴らし出る杭を叩くべく?李の戦いを起こし越へと攻め込んだ。しかし、?李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で、越の将軍の范蠡の奇策の前に敗れ、越の武将である霊姑孚
即位後
脚注^ 『史記索隠』が引く唐の孔穎達の言によると、余昧の子。
^ 『春秋左氏伝』では?設諸。
^ 『史記』では紀元前531年に逝去
^ 『史記』では余昧の息子
^ 紀元前506年に闔閭が楚の都である郢を占領したとき、王宮のうち旧令尹邸を末子の子山に与えた。しかし叔父の夫概が子山を攻撃したので、叔父を恐れた子山は立ち退いて、父の陣営に向かった。代わって夫概がここを本営とした(『春秋左氏伝』)。
^ 闔閭は3人の息子がいた。長男は太子波(杜預の『春秋経伝集解』および前述の『史記索隠』が引く『竹書紀年』や『呉郡図経続記』による。『春秋左氏伝』では太子終?)、次男が夫差、三男が公子子山(『春秋左氏伝』)である。