関_(さいたま市)
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■■関
町丁大字
関1丁目から望む中浦和駅
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度51分00.99秒 東経139度38分06.84秒 / 北緯35.8502750度 東経139.6352333度 / 35.8502750; 139.6352333
日本
都道府県 埼玉県
市町村 さいたま市
南区桜区
地域浦和地区
人口(2017年(平成29年)9月1日現在)[1]
 ? 合計1,144人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号336-0038(南区)[2]
市外局番048[3]
ナンバープレート大宮
人口は南区のみ。

関(せき)は、埼玉県さいたま市南区および桜区の地名。現行行政地名は南区には関一丁目及び関二丁目と、桜区には堤外地に飛地として大字関(浦和ゴルフ倶楽部クラブハウス向かい、及びさくら草公園内)が2ヶ所存在する。町丁は住居表示実施済み[4]郵便番号は336-0038(南区)[2]
地理

さいたま市の南部、南区の北の沖積平野に位置する。JR埼京線中浦和駅の西側に広がる地区である。北は鴻沼川を挟んで桜区西堀、東から南にかけては道路・水路を境界に南区鹿手袋、西は道路(田島排水路暗渠))を境に桜区田島である。地内は北部の鴻沼川周辺を除き市街化区域[5]で、主に住宅地となっている。
河川

鴻沼川

高沼用水東縁2014年に暗渠化された)


田島排水路(暗渠化され歩道が整備されている)

歴史

もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡与野領に属する関村であった[6]。平野原に持添新田の飛地を領していた[7]。村高は「武蔵田園簿」では59石(田41石、畑18石)、「元禄郷帳」では76石、「天保郷帳」では96石。助郷中山道浦和宿に出役していた。化政期の戸数は17軒で、村の規模は東西20余、南北2町余であった[6][7]

発足当初は幕府領正保年間(1645年?1648年)に知行旗本水野氏となり、承応年間(1652年?1655年)に再び幕府領となる[6]。なお、検地1689年(元禄3年)に実施[7]

幕末時点では足立郡関村であった。明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、代官大竹左馬太郎支配所が管轄する幕府領であった[8]

1868年慶応4年)6月19日 - 幕府領が武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。

1869年明治2年)

1月13日 - 武蔵知県事・宮原忠英の管轄区域に大宮県を設置。県庁は東京府馬喰町に置かれる。

9月29日 - 県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。


1871年(明治4年)11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。

1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。

1889年(明治22年)4月1日 - 周辺10ヶ村と合併し土合村となり[9]、土合村大字関となる[6]

1955年昭和30年)1月1日 - 土合村は大久保村とともに浦和市に編入され[10]、浦和市の大字となる。

1979年(昭和54年)6月2日 - 大字関の一部が新たに成立した大字油面[11]の一部となる[12]

1990年平成2年)8月1日 - 住居表示が施行され、埼玉県道40号さいたま東村山線を境に南北を一丁目と二丁目が成立する。堤外地(河川敷)の大字関は存続。

2001年(平成13年)5月1日 - 浦和市は大宮市与野市と合併しさいたま市となり、さいたま市関及びさいたま市大字関となった。

2003年(平成15年)4月1日 - さいたま市は政令指定都市へ移行、区制を敷き当該地区の大半は南区となり、南区部分はさいたま市南区関となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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