この項目では、かつて下関駅 - 門司港駅間を運航していた国鉄の鉄道連絡船について説明しています。
下関市唐戸 - 門司港間で現在運航している関門連絡船については「関門汽船」をご覧ください。
かつて、下関市彦島荒田港 - 小倉日明間を運航していたフェリーについては「関門海峡フェリー」をご覧ください。
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関門連絡船(かんもんれんらくせん)とは、山陽鉄道および日本国有鉄道(国鉄)が1901年(明治34年)から1964年(昭和39年)までの間、山口県下関市の下関駅と福岡県北九州市門司区(1963年までは門司市)の門司港駅[1]との間を運航していた鉄道連絡船である。
航路の名称は関門航路であった。 貨物では荷物の積み替えが煩わしいことから、貨車自体を線路を引いた船に載せる「鉄道車両渡船」が古くから使われ、このために門司港駅の南西(現在の小森江駅付近)に貨物専用の桟橋が設置されていた時期もあった。 関門鉄道トンネルの開通に伴い幹線輸送や鉄道連絡の意味合いは薄れたが、関門鉄道トンネルが通らない門司港駅付近(旧門司市の中心部に近い)と下関付近とを行き来する地元住民の便を図る目的で旅客輸送のみ継続された。しかし、民間航路の関門汽船・関門海峡汽船や関門国道トンネル(1958年3月9日開通)を通るバスへの旅客移行が進んだことから廃止になった。 関門航路は1901年(明治34年)5月27日に山陽鉄道が開設した航路である。 山陽鉄道では利用者増のため自社沿線の瀬戸内海上に鉄道連絡船を運航する営業政策をとっていた。その一環として同社の子会社である山陽汽船商社が1898年(明治31年)9月1日、徳山港と馬関港(現・下関港)・門司港を結ぶ鉄道連絡船「門徳連絡船」を運航開始し、当時開通していた神戸駅 - 徳山駅間を運行する急行列車と接続させた。また門司側ではこの当時すでに九州鉄道が門司駅(現、門司港駅)まで鉄道路線を開通させていたため、この連絡船を介して本州 - 九州間の連絡運輸が開始された。 その後、山陽鉄道が路線延長を進め、1901年(明治34年)5月27日には馬関駅(現・下関駅)まで開業したため、同日より徳山 - 門司港間の鉄道連絡船を廃止し、代わって下関駅と門司駅を結ぶ関門航路が開設された。 関門航路は下関丸 (初代)・大瀬戸丸の2隻で運航が開始された。山陽本線と鹿児島本線を連絡しており、本州と九州を結ぶ最重要ルートとされ、運航回数・輸送人員とも増加を続け、船舶も増備された。 1906年(明治39年)12月1日、鉄道国有法の施行により山陽鉄道が国有化されたため、当航路も国有化された。 輸送人員は開設10年後の1912年(明治45年)度には年間84万人(1日あたり約2,300人)であったが、大正時代末期には1日あたり1万人を越えた。その後も昭和初期の不況期を除いて増加を続け、関門鉄道トンネルが開通する前年度の1941年(昭和16年)度には年間880万人(1日あたり約24,000人)を記録している。 船舶については、1914年(大正3年)に門司丸が、1920年(大正9年)に長水丸・豊山丸が就航し輸送力を向上させている。関門鉄道トンネル開通直前での運航回数は53往復となっていた。 関門航路では旅客輸送とともに貨物輸送も行った。
概要
航路データ
下関 - 門司港間(旅客) 営業キロ(1940年10月)15.0km・(1961年10月)0.8km
1940年10月当時 53往復 所要15分
1961年10月当時 20往復 所要18分
下関 - 小森江間(貨物)
歴史
航路開設まで
航路開設から関門鉄道トンネル開通まで
貨物輸送関森航路の小森江側。1931年米軍撮影(1945年の資料に掲載)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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