関門海峡
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 日本における関門海峡の位置関門海峡周辺の空中写真。
2009年4月29日撮影の240枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成航空機内から撮影した関門海峡。上が下関市、下が北九州市門司区関門海峡を望む(火の山駅より撮影)夜景(同上)手前は下関港本港地区、その奥に三菱重工業下関造船所、造船所左は船島(巌流島)(海峡ゆめタワーから撮影)手前の水路は本州と彦島を隔てる小瀬戸、左奥に関門海峡を挟んで北九州市が見える(海峡ゆめタワーから撮影)

関門海峡(かんもんかいきょう)は、日本本州山口県下関市)と九州福岡県北九州市)を隔てる海峡。名称は両岸の地名である、馬関(現在の下関市)の「関」と、門司(現在の北九州市門司区)の「門」を取ったものである。穴戸海峡(あなとかいきょう)、馬関海峡(ばかんかいきょう)、下関海峡(しものせきかいきょう)とも称された[1]

2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『関門“ノスタルジック”海峡』?時の停車場、近代化の記憶?」として日本遺産に認定された。
地理

関門海峡付近は古くは陸地で最終氷期(約7万年前?1万年前)の寒冷期に河川が発達し、後にこれらの河川が花崗閃緑岩の岩石を洗い流して窪地になった[2]。さらに気候が温暖になり海水面が上昇したことで窪地に海水が入り込み海峡が出来上がった[2]

最深部は水深47m潮流大潮で最大10ノットを超えることがある。

本州と九州を隔てる水路を大瀬戸(おおせと)といい、彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸(こせと)または小門海峡(おどかいきょう)という。大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦和布刈の間は早鞆の瀬戸(はやとものせと)という。

一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。なお、海運業界では下関市彦島の周囲を迂回する形で門司区 - 小倉北区 - 戸畑区 - 若松区に抜けるルートが関門航路=関門海峡との認識である。
歴史

約6000年前に本州と九州が分断され、関門海峡が形成されたといわれる。関門海峡は諸外国との関係では交流交易や防衛の拠点、国内交通では本州と九州の結節点、さらに日本海と瀬戸内海をつなぐ海上交通の要衝であり、しばしば歴史の舞台となってきた[3]
記紀

仲哀天皇元年 - 仲哀天皇が妻の神功皇后と九州の熊襲(くまそ)の平定のために関門海峡へ進軍。翌年、穴戸の国(長門国)に豊浦宮(御所)を置いた(今の忌宮神社の場所)。

仲哀天皇8年9月 - 仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征伐のため博多の香椎宮を訪れる。そこで、神懸かりした神功皇后から「新羅を攻めよと天照大神住吉三神のお告げ(ご信託/託宣)を受けたものの、仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行う。しかし、ご信託の通り天皇軍は敗北し撤退。さらに翌、仲哀天皇9年2月、仲哀天皇自身が筑紫で熊襲の矢に打たれ崩じた。遺体は武内宿禰により海路穴門(※当時は関門海峡の一部は繋がっており、そこに巨大な穴が空いていて潮が行き来していたという説がある)を通って豊浦宮で殯された。
下関戦争と関門海峡

1863年、攘夷を主張する長州藩は海峡に砲台や軍艦を配備し、5月にはアメリカ商船、フランス艦、オランダ艦などを砲撃した[4]。長州藩はアメリカ艦やフランス艦から報復攻撃を受けたが海峡を封鎖し続けた[4]。海峡が通行不能となり、さらに攘夷論の台頭を恐れたイギリスは、フランス、オランダ、アメリカとともに艦隊を組織し、1864年8月に集中攻撃を行い陸戦隊を上陸させて占領を行った[4]。「下関戦争」を参照
第二次世界大戦と関門海峡

関門海峡周辺は1895年より下関要塞司令部が設置され下関要塞として関門海峡を、第二次世界大戦中には壱岐要塞対馬要塞とともに朝鮮海峡全体を防衛していた。太平洋戦争が進むにつれ、下関市吉見に下関海軍防備隊が置かれ、呉鎮守府の指揮を受け関門防備に当たることとされた。1940年に着工、1942年に完成[5]

太平洋戦争の末期にはアメリカ軍による飢餓作戦の一環として、B29による機雷敷設が行われた。日本近海に投下された機雷は推定1万1,000個とされ、そのうち半数近い約4,990個が関門海峡に集中的に投下されている。効果は抜群で、1945年3月には1日7万トンの船が通過していた海峡の通航量は、同年6月には1/40に減少した[6]。それでも終戦までに113隻が触雷している。

海軍は終戦後も下関防備隊を下関掃海部として掃海隊を所属させ、航路啓開に努め、1945年11月に海軍が解隊した以後も復員省に属して存続し、作業は継続された。1948年1月に全国各地の掃海部が解隊した後も、下関掃海部だけは作業終了の見通しは立たなかったため存続させられた。

米軍は「機雷の電池寿命は1948年頃尽きると推定、以後その効力を失う」と日本政府に通告していたが、現実にはそれ以後も触雷事故が絶えず、米軍はその都度機雷の寿命見積を延長したため下関掃海部は解散することが出来ず、海上保安庁、海上自衛隊と所属は変わったが、海上自衛隊下関基地隊を基地として関門の掃海は継続された[5]

戦後の掃海作業は1960年代まで集中的に実施されたほか、2010年代においても浚渫工事などで散発的に見つかる機雷を自衛隊下関基地隊が処理している[7]。現在も約1700個が未処理であると推定されている[8]

戦前・戦中の関門海峡については「下関要塞」も参照。
年表

約6000年前 - 本州と九州が分断され、海峡が形成される。

1185年元暦2年/寿永4年)3月25日 - 壇ノ浦の戦い安徳天皇が入水、平家一門が滅亡(治承・寿永の乱)。

1592年文禄元年) - 豊臣秀吉文禄の役出征のために通過した時、暗礁で船が座礁する。秀吉は危うく難を逃れたが明石(石井)与次兵衛が過失の責任をとって切腹した。それ以降、この場所を与次兵衛灘と言うようになった。与次兵衛灘はその後、浮世絵講談歌舞伎の題材になっており、シーボルトによるスケッチも残されている。

1612年慶長17年)5月13日 - 宮本武蔵佐々木小次郎による巌流島での決闘が行われる。

1863年文久3年)7月16日 - 長州藩が馬関海峡を通過するアメリカ合衆国商船に砲撃を開始、翌年5月の下関戦争(馬関戦争)の原因となる。

1895年明治28年)4月17日 - 日清戦争の講和条約(下関条約)が海峡に面した割烹旅館春帆楼」で調印。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef