関西水力電気
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関西水力電気株式会社種類株式会社
略称関水
本社所在地 奈良県奈良市高天町12番屋敷
設立1905年(明治38年)11月29日[1]
解散1942年(昭和17年)4月1日
(ただし1921年10月18日より関西電気、1922年6月26日より東邦電力
業種電気
事業内容電気供給事業
代表者森久兵衛(社長)・加納由兵衛(常務)
公称資本金450万円
払込資本金337万5000円
株式数旧株:6万株(額面50円払込済み)
新株:3万株(12円50銭払込)
総資産435万8074円(未払込資本金除く)
収入53万7041円
支出30万1374円
純利益23万5667円
配当率年率12.0%
株主数575名
主要株主森久兵衛 (8.8%)、橋本三郎 (3.0%)、森清兵衛 (2.7%)、田中吉太郎 (2.6%)、寺田元吉 (2.5%)
決算期3月末・9月末(年2回)
特記事項:代表者以下は1921年3月期決算時点[2]
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関西水力電気株式会社(かんさいすいりょくでんき かぶしきがいしゃ)は、明治後期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。奈良県奈良市を中心に電気を供給した。

設立は1905年(明治38年)。奈良市にて1894年(明治27年)より営業していた奈良電灯株式会社(奈良電燈、ならでんとう)の事業を引き継ぎ、社名の通り水力発電により事業を拡大した。供給区域には奈良県のほか京都府最南部も含まれる。

大正末期から昭和戦前期にかけての大手電力会社東邦電力の法律上の前身会社であり、1921年(大正10年)に名古屋市名古屋電灯を合併して関西電気となり、翌1922年(大正11年)には九州電灯鉄道などを合併して東邦電力へと改称した。本項では名古屋電灯と合併するまでを中心に扱う。
沿革
奈良電灯の開業

関西水力電気の前身奈良電灯(奈良電燈)は、1893年(明治26年)6月19日に設立され[3][4]、翌1894年(明治27年)5月22日付で奈良県から営業許可を得たのち同年10月1日に開業した[5]。会社所在地は奈良県添上郡奈良町(1898年市制施行で奈良市)大字高天12番屋敷[4]。供給区域は奈良県のうち奈良町と添上郡佐保村(現・奈良市)で、奈良県下で最初の電気事業者であるとともに日露戦争前の時期に開業した唯一の事業者である[6]。電源として1500灯用の40キロワット発電機を備える火力発電所(奈良町火力発電所)を設け、開業時は170戸の需要家に電灯300灯を取り付けた[6]

先行する関西の大阪電灯京都電灯神戸電灯といった電灯会社とは異なり、奈良電灯の場合は電灯需要が伸び悩み、日清戦争後の燃料石炭価格高騰も手伝って業績は低迷した[6]。業績低迷を反映して資本金は設立時の5万円のまま増加しなかった[6]

開業翌年にあたる1895年時点での代表者は専務取締役の梅田春保で、この段階では取締役・監査役計5人のうち4名が奈良町内の人物である(残り1名は郡山在住)[7]。一方、関西水力電気への譲渡直前にあたる1905年(明治38年)の段階では、社長の佐野正道以下取締役・監査役全員が大阪府の人物であった[3]
関西水力電気の設立

1905年11月29日水力発電事業を起こしその電気を奈良市とその周辺へと供給する目的で関西水力電気株式会社が設立された[8]。会社所在地は奈良市高天町12番屋敷で、設立時の資本金は15万円である[1]。発起人は森久兵衛(奈良電灯監査役[3]大阪鰻谷畳表商「泉久」[9])、加納由兵衛(大阪鰻谷の質商[10])、寺田元吉(寺田甚与茂の弟・岸和田の実業家[11])、田中善助(伊賀上野の実業家・巌倉水電社長[12])ら計7名[8]。発起人のうち田中善助の伝記によると、奈良電灯社長佐野正道が巌倉水電の発電所を訪れ田中に奈良への送電や奈良電灯の事業売却を持ち掛けたことが会社設立の発端という[13]

関西水力電気は設立と同時に奈良電灯から事業を継承した[8](ただし逓信省からの事業譲受認可は同年12月28日[5])。奈良電灯は翌11月30日付で解散している[14]。継承時の成績は需要家数約250戸、電灯数700灯前後であった[8]。電源は奈良電灯時代のままの火力発電であり採算があわないため水力発電所の早期建設を目指すが、会社設立に際して立案されていた山辺郡波多野村(現・山添村)に木津川支流名張川を用いる出力300キロワットの発電所を建設するという計画は、水上交通に支障をきたすという地元の反対で不可能になってしまった[8]。代替地の調査の結果、名張川よりも下流側で木津川に合流する布目川に着目し、1906年(明治39年)3月に京都府水利権を申請する[8]。だが布目川も競願者があり水利権が容易に許可されないため再び方針を転じ、布目川の西を流れる白砂川での発電計画へ変更した[8]。白砂川では地元の賛同も得て奈良県からも早期に水利権を許可された[8]。また布目川についても競願者の撤収によって水利権を得た[8]

1907年(明治40年)9月、添上郡狭川村(現・奈良市)に出力200キロワットの白砂川発電所が完成し、奈良市と郡山町(現・大和郡山市)への送電が始まった[8]。火力発電から水力発電への転換に伴って電灯料金を大幅に値下げしたため需要は急増し、200キロワットの発電力を消化する見込みとなったため、京都府相楽郡笠置村(現・笠置町)の布目川発電所(出力300キロワット)についても建設を急ぎ、翌1908年(明治41年)11月に完成させた[8]。完成後、奈良・郡山以外にも1909年(明治42年)2月に櫟本町丹波市町(現・天理市)、翌年7月にも田原本町などへ供給を拡張[8]。そのため1910年10月に布目川発電所を増設(出力600キロワットに)している[8]
事業の拡大


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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