「関西学院大学」とは異なります。
関西大学
千里山キャンパス
大学設置1922年
創立1886年
学校種別私立
設置者学校法人関西大学
本部所在地大阪府吹田市山手町三丁目3番35号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度46分13.2秒 東経135度30分29.5秒 / 北緯34.770333度 東経135.508194度 / 34.770333; 135.508194
関西大学(かんさいだいがく、英語: Kansai University)は、大阪府吹田市山手町三丁目3番35号に本部を置く日本の私立大学。1886年創立、1922年大学設置。略称は関大(かんだい)。 関西大学は、江戸時代後期の1825年(文政8年)、四国高松出身の儒学者、藤沢東?(1794-1864)によって大坂城下に開かれた漢学塾「泊園書院」を源流とし、1886年に関西初の法律学校として大阪府大阪市西区京町堀の願宗寺に開かれた関西法律学校を起源に持つ大学である[1]。 関西法律学校は、当時、司法省の顧問を務めていたギュスターヴ・エミール・ボアソナードに学んだ井上操、小倉久、鶴見守義、野村?吉、手塚太郎(漫画家手塚治虫の祖父)ら大阪在勤の裁判官や検事、また彼らの上司である児島惟謙(名誉校員)[2]、旧判事で、実業家となり後に大阪商工会議所の第7代会頭を務める土居通夫、元官吏の有田徳一、自由民権運動家である吉田一士らにより設立された。 また、大正期に山岡順太郎をはじめとする関西経済界からの強力な支援を受けて学校組織の大幅な変更が行われ、1922年(大正11年)には日本の私立大学では立命館大学と共に古い段階の大学令に基づき、2学部(法・商)を擁する大学(旧制大学)の一つとして新発足し、大学予科を付設した。 現在、13学部、大学院16研究科を設置している。近年、専門職大学院の充実を図っており、法科大学院・会計専門職大学院・臨床心理専門職大学院を設置している。 関西大学の建学の精神は、第二次世界大戦直後に学長を務めた岩崎卯一(法学部教授)が、1947年(昭和22年)に提唱した、「正義の権力よりの守護」を基底とする「正義を権力より護れ」となっている[3]。これは、関西法律学校の創立に重要な役割を果たした児島惟謙・大阪控訴院長が後に大審院の院長となり大津事件の裁判を担当した際に、時の内閣(第1次松方内閣)から被告人を極刑に処するよう強い圧力がかかったにもかかわらず、それに屈することなく司法権の独立を護ったことに由来している[4]。 また、大正期に、第11代学長山岡順太郎の掲げた、「学の実化(じつげ)」(学理と実際との調和、国際的精神の涵養、外国語学習の必要、体育の奨励)を学是として定めて[1]、教育研究活動を展開している。 今日の関西大学では、「学の実化」を、大学が研学の府として学問における真理追究だけに終わるのではなく、社会のあるべき姿を提案し、その必要とするものを提供することによって「学理と実際との調和」を求める考え方であると規定し、この「学の実化」を実現するために、不確実性の高まる社会の中で困難を克服し未来を切り拓こうとする強い意志と、多様性を尊重し新たな価値を創造することができる力とを有する人材を育成することを教育活動の目的としている[6]。
概要
大学全体
理念
関西法律学校および関西大学の主な関係者
児島惟謙(大阪控訴院長時代に名誉校員として関西法律学校創立に関わった)
吉田一士(近年の研究では関西法律学校創立に際して最も中心的役割を担ったとされる)[5]
山岡順太郎(「学の実化」の提唱者。日本の私立大学で初の実業界出身の学長でもある)
沿革「関西法律学校」も参照
年表願宗寺仮校舎(1936年撮影)関西法律学校第3回卒業記念写真(1891年、興正寺書院玄関前。前列左から有田徳一、2人はさんで井上操、水上長次郎、砂川雄峻、鶴見守義、手塚太郎)河内町興正寺の角櫓
1825年 - 藤沢東?によって泊園書院が開かれる。
1883年(明治16年)1月 - 児島惟謙、大阪控訴院長となる。
1884年(明治17年)7月 - 志方鍛、大阪始審裁判所判事補となる。
1885年(明治18年)12月 - 吉田一士(旧明治義塾監事)、大阪に活動拠点を移す。
1886年(明治19年)
1月 - 鶴見守義、大阪始審裁判所判事補となる。
5月 - 堀田正忠、大阪控訴院検事となる。