関西フォーク
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関西フォーク(かんさいフォーク)とは、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、関西から生まれたフォークソングのジャンルである。反戦歌やプロテストソングを含んでいた。
関西フォークの歴史

軟弱とも見られたカレッジ・フォーク中心のフォークが大きく変化したきっかけは、京都の学生のフォーク・バンドであるザ・フォーク・クルセダーズ[1]の登場も一つの契機だった。ザ・フォーク・クルセダーズは、1967年に京都で開催された第1回フォークキャンプに参加し、自主的な音楽活動の中心的な役割を果たしていた。ザ・フォーク・クルセダーズがアマチュア時代に自主制作したアルバム『ハレンチ』に収録されていた「イムジン河」が京都、「帰って来たヨッパライ」が神戸のラジオで放送され、メジャーデビュー後、大ヒットとなった。

これまでのフォークソングと違ったメッセージ性の強い、アンダーグラウンドな音楽の登場で、フォークブームが巻き起こった。フォーク・クルセダーズが活動を終えると、高石ともや[2]中川五郎五つの赤い風船[3]などが続き、高田渡遠藤賢司も関西に活動の「拠点を移し」、岡林信康の登場で最高潮を迎えた[4]。1967年から関西フォークキャンプなどを端緒として、関西各地でフォークの拡大が見られた。

欧米でのベトナム反戦運動や学生運動、ヒッピー・ムーブメント、公民権運動や、日本の全共闘運動激化の時代背景の中、差別や社会への批判を歌詞にしたフォークは学生や若者たちから支持を受けた。新宿駅西口広場の『フォーク・ゲリラ』による反戦集会には数百人が参加した。

1969年から岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)で『全日本フォークジャンボリー』、1971年から大阪で『春一番』がはじまった。近畿放送(現在の京都放送)で1960年代から70年代に音楽番組を担当していたディレクターの川村輝夫は、ザ・フォーク・クルセイダーズの「イムジン河」が1968年に発売中止になった後もラジオでかけ続ける[5]など、関西フォークのシンガーたちの楽曲を積極的に放送して応援した。

京都の喫茶店「ほんやら洞」を拠点に活動していた有馬敲片桐ユズルらオーラル派と呼ばれる詩の朗読に取り組む詩人たちがいた。片桐ユズルは、関西のフォークの状況などを伝えるミニコミ「かわら版」に執筆し、有馬敲の詩に関西フォークのミュージシャンたちが曲をつけて歌ったオムニバスLP『ぼくのしるし わらべうた24』が「1970年に発表」されるといった動きもあった。

また、中山容は、片桐ユズルとともに、ボブ・ディランの楽曲の歌詞の翻訳に力を入れた。それらは、フォークキャンプコンサートなどの取り組みを通じて、さらに補作され、普及していった。全国的に火がついたブームであったが、全共闘運動などの消滅により、フォークソングが「アングラ」からニューミュージックなどの「メジャー」へと移行していった。『春一番』も1979年を最後に中断するなか、京都では高石ともやなどが中心に1985年まで『宵々山コンサート』や『コンサート 夏の時代』などの活動を継続していた。

1994年から京都での『宵々山コンサート』が復活。2009年、会をまとめていたスタッフが死去し、継続が困難になり[6]、第29回で宵々山コンサートはいったん終了。しかしフォーク・ファンから復活を望む声が多く、会が永六輔・高石ともやと最後の宵々山コンサートの開催を決定し、2011年「第30回宵々山コンサート」を開催した[7]阪神・淡路大震災のあった1995年には『春一番』が大阪城野外音楽堂で復活。

1999年フォークキャンプのリーダー的存在だった藤村直樹高石ともや高田渡、豊田勇造、中川五郎中山ラビ中川イサト遠藤賢司ら往年のフォークキャンプ参加者に呼びかけて、京都市の円山公園音楽堂で『京都フォークキャンプコンサート』を開いた。

きたやまおさむ企画の『コンサート 夏の時代』は、2000年に大阪で一度だけ復活した。

2009年、中津川で『全日本フォークジャンボリー』を受け継ぐ『'09 椛の湖フォークジャンボリー』が開催された。

福岡風太、阿部登がプロデュースする『春一番』は、会場を服部緑地野外音楽堂に変えて毎年継続中。しかしながら、主要メンバーの他界もあり、2020年が最後の春一番となる模様。
脚注^ 「悲しくてやりきれない」も代表曲の一つ。


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