関根金次郎 十三世名人
関根金次郎
名前関根金次郎
生年月日 (1868-04-23) 1868年4月23日
没年月日 (1946-03-12) 1946年3月12日(77歳没)
出身地下総国葛飾郡東宝珠花村(現・千葉県野田市東宝珠花)
所属将棋同盟会
→将棋同盟社
→東京将棋連盟
→日本将棋連盟(東京)
→将棋大成会(関東)
師匠八代伊藤宗印十一世名人、十二代大橋宗金
弟子土居市太郎、金易二郎、花田長太郎、小泉雅信、木村義雄、渡辺東一、福井資明、五十嵐豊一
段位十三世名人
2020年8月28日現在
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関根 金次郎(せきね きんじろう、1868年4月23日(慶応4年4月1日) - 1946年(昭和21年)3月12日)は、明治から昭和初期の将棋棋士、十三世名人。本来の表記は關根金次カ。八代伊藤宗印及び十二代大橋宗金門下。将棋連盟や実力名人制を創始した。「近代将棋の父」とも称される[1]。
下総国葛飾郡東宝珠花村(現在の千葉県野田市東宝珠花)の生まれ。 東宝珠花村の近くにあった岡田村の寺子屋に通わせられるが、途中、将棋を指してばかりのため、やめさせられてしまう[2]。次に学校に通わされると、学校では将棋好きの校長先生と指し、村では老人らと指し、一日ごとに強くなる実感を得る[2]。ついには、あまりの強さに村中で相手がいなくなり、宝珠花小僧の異名で呼ばれるようになった。学校に行くふりをして弁当持参で遠くの村にも遠征した[2]。その後、親によって学校に行くのをやめさせられ、奉公に出されるも、将棋を指してばかりで1週間 - 10日ほどで追い出され、奉公先を転々とする[2]。 11歳の春、将棋指しを志して上京し、のちの十一世名人伊藤宗印(当時は名人に襲位前の八段)の門戸をたたき、四枚落ちで指してもらう[2]。いったん郷里が恋しくなり帰郷した後、再び伊藤を訪れたところ、しばらく東京から離れて将棋遊歴(修行の旅)に出ることを勧められ、旅に出る[2]。この旅には数々のエピソードがある(後述)。 その後、明治16年に二段、20歳で三段、明治24年に四段[3]。明治24年大阪で小林東白斎八段と角落戦でやぶれて発奮[要出典]し、また、四国、中国、九州と遊歴したのち(関根自身は将棋の勉強のために、全国を三巡したことがあるとのちに言っている[4])大阪でふたたび対戦し勝利をおさめた。 1893年(明治26年)に師匠の十一世名人伊藤宗印が死去し、家元・伊藤家が断絶すると、名人位は空位となる(大橋分家は既に断絶しており、大橋本家の宗金は棋力が低かった)。 1895年(明治28年)五段、1897年(明治30年)六段。 1898年(明治31年)、政界などの後押しを受けた小野五平が家元を継ぐことなく十二世名人を襲名。その名人披露の招待状が来なかったことに怒った関根は、小野に挑戦状を送るが、芳川顕正らが間に立ち、和解[2]。
生涯