関根潤三
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関根 潤三1959年、近鉄時代
基本情報
国籍 日本
出身地東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:東京都渋谷区
生年月日 (1927-03-15) 1927年3月15日
没年月日 (2020-04-09) 2020年4月9日(93歳没)
身長
体重173 cm
65 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手外野手
プロ入り1950年
初出場1950年3月15日
最終出場1965年11月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


旧制日本大学第三中学校

法政大学

近鉄パールス
近鉄バファロー
近鉄バファローズ
(1950 - 1964)

読売ジャイアンツ (1965)

監督・コーチ歴


広島東洋カープ (1970)

読売ジャイアンツ (1975 - 1976)

横浜大洋ホエールズ (1982 - 1984)

ヤクルトスワローズ (1987 - 1989)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2003年
選出方法競技者表彰
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年昭和2年〉3月15日[注 1] - 2020年令和2年〉4月9日[2])は、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現・東京都渋谷区)出身(北豊島郡巣鴨町(現・豊島区巣鴨)生まれ)のプロ野球選手投手外野手)・コーチ監督解説者

現役時代は近鉄巨人で活躍。打者で1000本安打・投手で50勝を記録、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した[注 2]2003年野球殿堂入り。
経歴
現役時代
アマチュア時代

藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄であったため、練習に参加させてもらえなかった。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いであった。やがて、兼務していた法政大に掛り切りとなった藤田が去り、後任監督から二塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるようになった。左利きの二塁手が二塁のベースカバーで併殺を完成させるのは難があったが、それでも関根は3度成功させた記憶がある、と『さらば、愛しきプロ野球…。』の中で語っている。また投手に抜擢されたのも、この旧制中学時代の頃であったが、杉下茂が居た旧制帝京商などに阻まれ、甲子園への出場は叶わなかった。

卒業後は法政大学経済学部に進学し、東京六大学リーグでは、藤田監督の下で4年間にわたりエースとして活躍。旧制中学同期の根本陸夫ともバッテリーを組み、3年次の1948年秋季ではチームを戦後初のリーグ優勝に導く。4年次の1949年では春季に主将を務め、秋季では戦後初、史上2人目の通算40勝を記録。リーグ通算79試合登板、41勝30敗。毎試合のように先発し、当然のように1試合を投げ切った。エースの連投が当たり前であった当時の東京六大学ではあったが、通算658イニング、シーズン投球回数133回2/3(1949年秋季)、勝敗通算71(若林忠志と同数)という記録を残した。1949年秋には来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投し、当時の法大は明大との秋季リーグ優勝争いの渦中にあったが、急遽子供達だけを招待する「オドールデー」として組まれた六大学選抜軍との試合にエースの関根が先発登板することとなった。このためか、翌々日の明大戦にチームは敗れ、優勝を逃した。打者としても93試合に出場し350打数93安打、打率.266、0本塁打、38打点を記録した。
プロ入り後

当初はプロ入りを望んでいた訳ではなく、八幡製鐵所に就職が内定していたが、恩師の藤田が監督に就任した事もあって、1950年近鉄パールスへ入団。1年目の同年は規定投球回(25位、防御率5.47)に達するが4勝にとどまる。

1951年1953年には開幕投手を務めるなど万年最下位の近鉄でエースとして活躍し、特に1951年の開幕戦では、法大の先輩でもある同僚森下重好が3打席連続本塁打で援護射撃した。

1954年には自己最高の16勝、リーグ10位の防御率2.44を記録するが、自身はプロ入団初年の開幕2戦目にして肩を壊しており、それ以降は本当の球の力が戻らなかったと述べている。「カーブやフォークは遊びであり、ピッチャーでまっすぐが通用しなくなったら終わりだ」との持論もあって、プロ8年の投手人生に見切りをつけ、打者に転向したと述べている[3]。始めは旧制中学からのチームメイトである根本に転向の意思を打ち明けたが、関根の球威に限界を感じていたのか、根本からは反対されなかった。元々野手顔負けの打撃力を備えていたこともあり、右翼手あたりを狙って正式に野手転向を申し入れる。しかし首脳陣からは「転向しても下位打線では困る」と難色を示され、1957年4月9日からの阪急との3連戦に右翼手として限定起用、クリーンナップとしての適性を試された。初戦は5番打者として3安打、2戦目で2安打、3戦目は三番に回り1本塁打を含む3安打を記録する。この結果、小玉明利ら打線の中軸の一角に座ることになった。もっとも関根、小玉とも長打力を持ち味としておらず、打線全体としては他球団よりも爆発力で劣っており、後年「ピストル打線」と呼ばれる。同年は主に3番・右翼手として起用され、初めで規定打席に到達、リーグ9位の打率.284を記録。

1958年は開幕直後に負傷欠場するが7月半ばには復帰し、その後も中心打者として活躍。

1962年には自己最高でリーグ8位の打率.310、1963年にもリーグ6位の打率.296で自己最多の12本塁打と好成績を挙げた。

1965年読売ジャイアンツへ移籍し、16年目・38歳で初のリーグ優勝を経験。同年の南海との日本シリーズでも3試合に代打として起用され、第2戦で初安打を放つ。自身のプロ生活唯一のポストシーズン、チーム日本一(V9初年度)も経験し、同年限りで現役引退。川上哲治監督以外はコーチも含めて全員年下だったため、若い選手からは「お父さん」と呼ばれていたという。

投手・野手両方で実績を残した数少ない選手である。史上初めて、投手・野手の両方でオールスターに出場した。投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場(長らく「史上唯一」であったが大谷翔平2013年に野手として、2014年に投手として選出され、出場し2人目となった。)。また、2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。さらに、通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めても他に中日などで活躍した西沢道夫しか達成していない記録である。


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