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関東軍
新京の関東軍総司令部
創設1919年(大正8年)4月
廃止1945年(昭和20年)8月
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位総軍
人員74万人(1941年時点)
所在地満洲
編成地旅順
通称号/略称徳
担当地域当初は南満洲鉄道附属地
満洲事変以降は満洲
最終位置新京
主な戦歴満洲事変-ノモンハン事件-
第二次世界大戦(ソ連対日参戦)
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関東軍(かんとうぐん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:關東軍)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。旅順の関東軍司令部跡(現・関東軍旧蹟博物館)長春の関東軍司令部跡(現・中国共産党吉林省委員会機関)
関東都督府(関東州と南満洲鉄道附属地の行政府)の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満洲事変を引き起こして満洲国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満洲国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。
現地の佐官級参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件や張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の日中戦争や太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった。なお、満洲事変は参謀本部や陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、陸軍大元帥で統帥権を持つ天皇の許可なしに軍事行動をする事は明確な軍規違反であったが、首謀者達は処罰されるどころか出世した。以降、関東軍は規模を拡大させ、1941年(昭和16年)の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、1945年(昭和20年)8月9日のソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。
「関東軍」の名称は、警備地であった中国東北部の関東州に由来するもので(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満洲全体を意味する)、日本の関東地方とは無関係である。 日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍や朝鮮軍、支那駐屯軍などと同じ、軍たる関東軍として独立した。司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した[1]。当初の編制は独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。 1919年4月25日、関東都督府旅順陸軍軍法会議を関東軍旅順陸軍軍法会議に、関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称することを決定し同年5月1日に施行した[2]。同年5月16日、関東軍憲兵隊を配置した[3]。 1928年には、北伐による余波が満洲に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し(易幟)、工作は裏目となった。そのため1931年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満洲から駆逐し、翌1932年、満洲国を建国する。当初、犬養毅首相は満洲国承認を渋るが、海軍青年士官らによる五・一五事件により殺害され、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結して満洲国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満洲国軍と共に満洲国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満洲国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年に満洲国の首都新京市(満洲国消滅後、旧名の長春に戻る)に移った。 一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱に中で建国されたソビエト連邦は、ロシア帝国より弱体化していたが、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は赤軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。1938年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第19師団が初めて赤軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するものの大きな損害を被り、日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった[4]。なお、ノモンハン事件の引責で植田謙吉司令官、磯谷廉介参謀長ほか多くの将校が更迭または予備役編入されている。 これらの武力衝突により、赤軍の脅威が認識されたことや第二次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。 関東軍は対ソ戦備だけでなく、通信傍受や人的諜報(ヒュミント)により、ソ連情報の収集に努めたが、同時にソ連側も二重スパイを含めて日本や満洲国の情報を探ったり、欺瞞情報をつかませたりしていた[5][6]。 1942年10月1日には部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格。関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。 しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は太平洋各島や東南アジア(南方方面)に移ったため、関東軍は戦力を抽出・転用され、兵員は減少を続けた。独ソ戦や日ソ中立条約により、予想された赤軍との戦闘がなかったため、関東軍も進んで南方軍に戦力を提供した。その埋め合わせに1945年になると、在留邦人を対象に約25万人に及ぶ根こそぎ動員を行い、数字上では総員78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満洲防衛に必要な戦力量には至っていなかった。 1945年5月のナチス・ドイツ降伏後、赤軍の極東への移動が活発になった。6月4日に前総司令官である梅津美治郎参謀総長は大連に赴き、日ソ開戦時、一部の満洲地域を放棄し、防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を関東軍に命令した。 同年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した。満洲に侵攻してきた赤軍に対し、10日大本営は朝鮮防衛と司令部の移転を命令(大本営陸軍命令1378号)した。これに基づいて11日より兵員を通化に移送し始めたが、通化では通信設備が完成していないため総司令部は新京に残ったとする説[7]、実際には総司令部は9日未明には発っていたとする説から14日完全に移転したとする説まで総司令部の通化への移動日については諸説ある。また、結局、通化では通信施設が完成していなかったために前線との連絡すら取れず、結局、新京に戻らざるをえなくなったとされる説や、重要な決定放送が15日にあるので新京に戻れとの電話連絡があったので戻ったとする説[8]がある。この間、関東軍は在留邦人の保護に人員を割くことを殆どしなかったために、葛根廟事件などの民間人が虐殺される事件が発生し、「邦人を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎えた(正式に降伏と停戦の命令が関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった)。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は、夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。 停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部も、11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿元首相の嫡男で近衛家当主であった近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に死亡したため、当主不在となった近衛家は、文麿の外孫である近衛忠Wが継ぐこととなった。また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第4練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立して第二次国共内戦において中国共産党側につき、中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。
歴史
関東軍が関係した戦闘・事件等
張作霖爆殺事件(1928年)
柳条湖事件(1931年)
満洲事変(1931年)
ノモンハン事件(1939年)
ソ連対日参戦(1945年)
東安駅爆破事件 - 撤退に当たって弾薬を爆破処分した際、民間人多数が巻き込まれ死傷した事件。
基本情報
通称号:徳(徳兵団)
編成時期:1919年4月
最終位置:新京
人事
階級は全て就任時のもの。
昭和17年10月1日には軍から総軍への編制昇格に伴い、総司令官・総参謀長・総参謀副長と呼称変更。
昭和8年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍司令官が満洲国在勤特命全権大使を兼ねた。
司令官・総司令官
立花小一郎(大正8年 - 大正10年)
河合操(大正10年 - 大正11年)