関東幕注文
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「関東幕注文」(かんとうまくちゅうもん)は、戦国時代の史料で、永禄年間(1558年 - 1570年)に上杉謙信が関東地方へ進出した際に、上杉氏に臣従した諸将を記録した注文である。特に上野国(群馬県)の戦国時代の勢力図を推定するための重要な史料とされている[1]
概要

「関東幕注文」は、旧米沢藩主・上杉家伝来の上杉家文書の一部である。文書の前書きには、正確な年代は不明だが上杉謙信永禄4年(1561年)に関東地方に出兵した頃のもの、とある。この文書、未だその年と詳にせずと雖も、永禄4年以来上杉輝虎の関東に出陣せし頃のものなるべきを以て、今姑くここに収む ? 「上杉家文書之一」四八二 関東幕注文 、東京大学史料編纂所、古文書フルテキストデータベース、「関東幕注文」、コマ番号453

この文書は、上杉謙信が関東地方に侵攻した際、その幕下に馳せ参じた関東地方の諸将255人の名前を列記したものである。およそ半数は上野国(群馬県)の武将で、諸将の関係性もうかがえることから、群馬県の戦国時代の情勢を知る重要な史料とされている。
上杉謙信の越山
北関東の動向

室町時代、関東地方には鎌倉公方が置かれ、関東の諸国の統治を任じられた[2][注 1]。これを補佐するのが関東管領である[3]。ところが、鎌倉公方家は室町幕府と対立、関東管領とも反目し、関東一円を巻き込んだ争乱を引き起こした(永享の乱享徳の乱[4][3]

関東管領職には足利氏の外戚である上杉氏が就任、上杉家は4分家に分かれて交代で関東管領職を担った[5]。鎌倉公方が衰えると関東管領上杉氏が台頭するが[3]山内上杉家扇谷上杉家が敵対、抗争するようになった[5][6]

戦国時代に入ると相模国後北条氏が関東一円に進出し、関東管領職は実力を失い名ばかりの地位となった[3][5]。上野国の平井城(群馬県藤岡市)を本拠とする関東管領・山内上杉家の上杉憲政は、河越城の戦い(1546年、埼玉県川越市)で後北条氏に大敗した[7][6]

その後も上杉憲政は南から後北条氏(北条氏康)、西から武田氏(武田信玄)の侵攻を受ける[6]。上野国の諸勢力は後北条氏に転じるものが相次ぎ、とうとう上杉憲政は天文21年(1552年)に越後国(新潟県)の長尾氏上杉謙信)を頼って落ち延びた[5][7][6]
上杉謙信の関東出兵

永禄3年(1560年)の秋(旧暦8月)、越後国長尾景虎(上杉謙信)三国峠を越えて上野国(群馬県)に侵攻した[8]上杉憲政を奉じ、関東地方を簒奪した後北条氏を攻撃するためである(上杉謙信の越山)[8]

越後勢はまず上野国北部の沼田城沼田市)を攻略、次いで厩橋城前橋市)・那波城(伊勢崎市)・館林城館林市)などを攻撃した[8]

長尾景虎(上杉謙信)はそのまま関東に留まり越年すると、翌永禄4年(1561年)には南関東へ進出、鎌倉を攻め落として後北条氏の本拠小田原城に迫った[8]。この年の春(旧暦・閏3月)には上杉憲政より正式に山内上杉家の家督と関東管領職を譲り受けた[8]

この一連の出兵により、関東の諸勢力は、いちどは後北条氏に属していた者も、続々と越後上杉氏の幕下に従うようになった[8]。その諸将を記録したものが「関東幕注文」である[8]
幕注文の形式

上杉謙信(長尾景虎)・上杉憲政のもとに関東地方の諸勢力・国人衆が参集すると、上杉氏はこの諸将のため陣幕を発注した[9]。その発注書の控え書きが「関東幕注文」である[9]

「上杉家文書」の一部として現存する「関東幕注文」は、23枚の紙片を継ぎ合わせたものになっている[1]。これに関東地方の255将の名と、その家紋の説明が列記されている[10][1]

名前は別に上野国下野国武蔵国常陸国安房国上総国下総国の順で並べられ、さらに「衆」として地区ごとにまとめられている[10][1]

家紋は各勢力の系統を推定する手がかりとなり、各衆のまとめ方や並び順などは当時の関東地方の武士団の動静をうかがう証拠となる[10][1]。特に、255名のうち130ほどの将は上野勢、さらに80ほどの将は下野・武蔵勢と、大半が北関東に集中しており、戦国時代の北関東の勢力図を知るための重要な史料に位置づけられている[1][10][9]
失われた部分

現存する「関東幕注文」は23枚の紙から構成されているが、本来あったはずの一部分が欠落している[10][9][1]

文書は、はじめに上野国の諸将が列記されていて、1枚目から「白井衆」「惣社衆」「箕輪衆」「厩橋衆」「沼田衆」と続き、4枚目は「岩下衆」「斉藤越前守」「山田」で終わっている[1][10]。この「岩下衆」は上野国北西部の吾妻郡岩下城に拠った斎藤氏である[1]

5枚目は「横瀬雅楽助」から始まり、「(新田殿御一家)西谷五郎殿」「(同)三原田弥三郎殿」と続く[1]。この「横瀬雅楽助」は上野国東部の新田郡横瀬成繁である[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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