関東大震災
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この項目では、1923年に発生した地震による震災について説明しています。

本震災を引き起こした地震については「関東地震」をご覧ください。

相模トラフ沿いの海溝型地震全般については「相模トラフ巨大地震」をご覧ください。

南関東の直下型地震全般については「南関東直下地震」をご覧ください。

関東大震災による惨状(横浜市中区)

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年大正12年)9月1日11時58分[1][2]日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害[注釈 1]。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
概要当時の東京府東京市東京15区)。円太郎バス(旧:交通博物館蔵)。震災後の神奈川県庁。

神奈川県および東京府(現:東京都)を中心に隣接する茨城県千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。

後年同様に大震災と呼ばれる阪神・淡路大震災兵庫県南部地震)では建物倒壊による圧死東日本大震災東北地方太平洋沖地震)では津波による溺死が多かったのに対し、本震災では火災による焼死が多かった[7]。これは本震災発生時に日本海沿岸を北上する台風が存在し、その台風に吹き込む強風が関東地方に吹き[8]風害参照)、木造住宅の密集していた当時の東京市東京15区)などで火災が広範囲に発生したからである。正午前ということもあり、昼食の準備のためにかまど七輪に火を起こしている家庭も多かった。また可燃物の家財道具(箪笥や布団)を大八車などに載せて避難しようとした者が多く、こうした大量の荷物が人の避難を妨げるとともに、火の粉による延焼の原因となったとされる[9][10]。強風に加えて水道管の破裂もあり、火災が3日間続いた。近代日本において史上最大規模の被害をもたらした。

府県をまたいだ広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃して国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われた。しかし、内閣総理大臣加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死していたため、外務大臣の内田康哉内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

震災後、日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された[11]

金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた[注釈 2]モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった[12]。引受にはロスチャイルドも参加した[13]。金策には森賢吾が極秘で奔走した[14]

日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月?)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁[15]世界恐慌昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出禁止[16]になった。

この震災により、東京市・横浜市から大阪府愛知県など、のちに三大都市圏となる地域に移住する者も多くみられた。明治時代、東京にあった明治政府による藩債処分により大打撃を与えられた大阪市であったが当時は経済的に回復していた。特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた(参照)。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため、東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始[17][18]円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[18]。電話の自動交換機も普及した[19]
状況

東京帝国大学理科大学教授の寺田寅彦も、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災している。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。 T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。 ? 寺田寅彦、『震災日記』

?駐日フランス大使だったポール・クローデルは、罹災しながら、被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。


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