関本大介
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関本 大介
Daisuke Sekimoto
2023.05.06 撮影
プロフィール
リングネーム関本 大介
本名関本 大介
ニックネームマッスルモンスター
肉体凶器
怪力無双
身長175cm
体重120kg
誕生日 (1981-02-09) 1981年2月9日(43歳)
出身地大阪府大阪市鶴見区
所属大日本プロレス
スポーツ歴野球
トレーナー本間朋晃
山川竜司
デビュー1999年8月10日
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関本 大介(せきもと だいすけ、1981年2月9日 - )は、日本男性プロレスラー大阪府大阪市鶴見区出身。大日本プロレス所属。血液型O型。

鍛え上げられた肉体が特徴で、その肉体自体が「凶器」と自称している。その分厚い筋肉は全盛期のディック・ザ・ブルーザーを彷彿とさせる。
来歴

幼い頃からプロレスへの憧れはあったものの、野球好きだった父親の影響で中学・高校と明徳義塾に通い、野球部に所属。「大介」の名も荒木大輔にちなむ。ポジションは一塁手で[1]、中学時代には4番も打った[2]

関本の父は、関本が「絶対君主」と評するほど厳格な存在であり、父に課せられたトレーニングであった足上げ腹筋の際に足を下ろさないようにライターを構えられたことがある。しかし、関本はそれを虐待とは思っておらず、むしろ「でも結局ライターの火なんて、落ちたら風圧で消えますよね。火も弱いし、風でなびくから、親父のほうが「熱い」ってなって(笑)。それが面白くて、でも笑ったら怒られるから、こらえていたら逆に腹筋が鍛えられるっていう。意味の分からない鍛え方をしてましたね」と後に週刊誌のインタビューで関本は振り返っている。父に対しても恨みなどは全く抱いておらず、むしろ「感謝しかない。今は仲が良いですし、ほんとに感謝しかないです」と、父が厳しくしていたからこそ辛いことがあっても耐えられるようになったと言っている[3]

中学時代の終わりに、大阪府立体育会館で行われた全日本プロレスチャンピオン・カーニバル公式戦、小橋建太スタン・ハンセンの試合を観戦したことをきっかけに[4]、はっきりとプロレスラーを志すようになる。高校進学すると、野球部には全国から有望な選手が集まり(松坂世代にあたる学年で、同級生に寺本四郎高橋一正がいる)、本人曰く「四軍まである中で文句無しの四軍」になってしまう。しかし、控えゆえ監督・コーチの目が届きにくいことを逆手に、野球の練習ではなく筋トレに終始。3年間プロレスラーとしての素養を磨く。当時監督の馬淵史郎によれば、「打球の速さは寺本より上」だったという。当時相撲部の留学生として明徳に在籍していた、後の横綱朝青龍(同い年、関本が一学年上)とウェイトトレーニングで張り合い、腕相撲では勝利したというエピソードもある[2][4]

同級生の高橋がヤクルトスワローズから声をかけられていた繋がりから、ヤクルトのスカウト部長であった片岡宏雄のつてでグレート小鹿と面談[2]。高校を卒業した1999年、大日本プロレスに入門。8月10日、地元大阪での対伊東竜二戦でプロレスデビュー。
2001年

MEN'Sテイオーのタッグパートナーに抜擢され「MEN'S CLUB(メンズ・クラブ)」を結成。1月にBJW認定タッグ王座を戴冠、9月に大日本最侠タッグリーグ戦で優勝、12月にWEWハードコアタッグ王座を戴冠などの実績を残す。最侠タッグリーグについては翌2002年も連覇した。
2004年

10月22日、後楽園ホールにおいてマッドマン・ポンドを相手に蛍光灯100本デスマッチを敢行(事実上のデスマッチデビュー戦)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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