関所
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関所の冠木門様式の門(石部宿場の里にて)神聖ローマ帝国ライン川の通行料を徴収するために建設したプファルツ城

関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。
関所の設置

関所の機能には軍事的目的(防衛)、警察的目的(治安)、経済的目的(交通料徴収)がある[1]

陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、河岸に設置されることが多い。
中国の関所.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}鎮南関剣門関函谷関洛陽潼関虎牢関雁門関嘉峪関陽関山海関居庸関玉門関 歴史的な中国の関所
春秋戦国時代

春秋戦国時代には、孝公により函谷関が建設された[2]。函谷関は「天下第一関」や「秦函谷関」とも称される、中国で最も古い関所である[2]楚漢戦争において項羽軍により破却された(のちに復元)[2]新安県の函谷関
漢代

代には武帝シルクロードの拠点に玉門関陽関を設置した。
日本の関所
古代

飛鳥時代646年大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。もっとも改新の詔の内容には疑問も持たれており、確実に存在したと言えるのは天智天皇の時代のこととされ、壬申の乱の時に鈴鹿関を守る関司が大海人皇子(後の天武天皇)方についていたことが知られている(『日本書紀』天武天皇元年6月壬申条)[3]。この戦いで勝利した天武天皇は、乱後に大和国河内国の国境にある龍田山と大坂山に関を設けた(『日本書紀』天武天皇8年11月是月条)[4]

東海道鈴鹿関東山道不破関北陸道愛発関畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。鈴鹿峠から東は、東国または関東と呼ばれた。平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。

三関のほか、東海道の駿河相模両国境には足柄関、同じく東海道の常陸陸奥両国境には勿来関、東山道の信濃上野両国境には碓氷関、同じく東山道の下野・陸奥両国境には白河関北陸道越後出羽両国境には念珠関がそれぞれ設置された。このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。更に衛禁律には摂津関と長門関の規定があり、それぞれ難波津関門海峡に設置されていたと考えられている[4]。また、長門関の対岸である豊前国にも門司(後に地名化されて、門司関とも呼ばれる)が設置されていた[4][5]

この他にも中央政府もしくは国司によって交通上の要所に小規模または臨時の関所が設けられる場合があり、これらは?(せき)とも呼ばれた[4]

律令制における関は全ての公民本貫地戸籍に登録して勝手な移動を規制する「本貫地主義」を維持するために必要な浮浪の阻止、中央で発生した謀反の関係者の逃亡の阻止、政府に不都合な情報(謀反の計画・実行者による地方への命令を含む)が関所の外に漏れないように阻止する情報統制の役割を果たしたと考えられている。官民が私用上の必要があって関所を越える際には、所属する官司・国司・郡司に対して過所の交付を受けて関に提出する必要があった[3][4]
中世

中世には、朝廷や武家政権荘園領主・有力寺社などの権門勢家がおのおの独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した[6]室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。

関所は中世の交通における最大の障害であったが、同時に関所を設置した勢力は関銭を納めた通行者に対して通行の安全を保障する義務を負った。関銭は設置した側にとっては金儲けの手段としての側面と通行の安全保証に対する礼銭としての側面の両面があった。これは水上における海賊衆の警固料と同様の意味を有していた。

実際に支出する関銭の総額については、関所の数や地理的状況により多寡はあった考えられるが、15世紀末の伊勢神宮の近辺の例では、松阪市から内宮までの50 kmに満たない距離の間に、100以上の支出を要したとする分析例がある[7]

戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長は、関所の廃止を徹底して実施した[8]
近世
近世の関所

江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。このためこれらの関所では中世の関所とは異なり、関税を徴集することは無かった。主な関所には、東海道箱根関所新居関所中山道碓氷関所木曽福島関所甲州街道小仏関所日光街道奥州街道房川渡中田関所などがある[9]宝暦14年(1764年)、留守居により手形の発行される関所は、上州の新郷、川俣、五料、杢橋、碓氷、横川、大戸、大笹、猿ヶ京、相州の箱根、根府川、総州の小岩、市川、関宿、越後の関川、遠州の今切、荒井、信州の福島(木曽福島)、武州の房川渡(栗橋・中田)、小仏(駒木根)の17ヵ所が指定された[10]。近世の関所は、幕末には46あったという[11]


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