関川夏央
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関川 夏央(せきかわ なつお、本名:早川哲夫、1949年11月25日 - )は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家で、かつては漫画原作者であった。
来歴新潟県長岡市出身。新潟大学教育学部附属長岡中学校を経て新潟県立長岡高等学校卒業。上智大学外国語学部中退。早稲田大学客員教授。国土審議会圏域部会委員。2008年から神戸女学院大学客員教授。日本映画大学特任教授。
母親は大学の英文科の出身で、教育熱心であり、小学生時代から英語を教えられたが、必要性を感じず、挫折。また、父親は高校の国語教師で柔道をやっており、柔道を教え込まれた。中学では宣教師の教師から英語を学ぶ。また、高校1年の時には、アルバイトでためた金で家出し、自転車で西宮まで行った。
大学中退後、1973年に『週刊プレイボーイ』で、フリーのデータマン
として半年、仕事をする。その後、出版社に編集者として就職[1]するが、給与の低さに退職。
また、24歳から25歳にかけて結婚していたこともあるが、離婚。
その後、様々な仕事をするが、1977年には編集者の櫻木徹郎(サン出版で1974年にゲイ雑誌『さぶ』を創刊。南伸坊の『さる業界の人々』にも「Sさん」として登場する)の元で、数ヶ月、エロ漫画雑誌の編集長をつとめ、またその雑誌の漫画のための「漫画原作」を執筆。なお、同様の「エロ漫画の原作執筆」は、『本の雑誌』を創刊したばかりの椎名誠と目黒考二も、アルバイトとして行っていた[2]。
なお、編集者時代は赤瀬川原平の担当だったこともあった[3]。
1977年、後に名コンビとなる漫画家谷口ジローと出会い、意気投合。2人で漫画の合作を開始。以降も、漫画原作者として、おもに谷口とコンビをくんだ、ハードボイルド作品等を発表。
1980年代以降は、ノンフィクション、ルポルタージュ的な切り口で、時代や社会の有り様を鋭くえぐり出している。
また、1980年代の雑誌「漫画アクション」の名物匿名コラム、「アクション・ジャーナル」に、阿奈井文彦、亀和田武、呉智英、堀井憲一郎、村上知彦、山口文憲らとともに、執筆者の一員ともなった。
1990年代には、北朝鮮を何度も訪問してその状況をレポート。「北朝鮮は社会主義国家ではなく、破綻したカルト宗教団体である」と、いち早く指摘した。その一方で、1992年から2002年まで6回開催された、「日韓文学シンポジウム」の実行委員をつとめた。
2016年現在、小林秀雄賞などの選考委員を務めている。
人物
70年代後半から80年代初め、交友があった漫画家いしかわじゅんの漫画に「セキカワ」または「関川」というキャラクターで、よく登場していた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、いしかわは関川のことを、「へそ曲がりで性格がものすごく悪いが、寂しがりやでもある」と評している[要出典]。また、漫画『それゆけ!山道山』の主人公である山道山など関川をモデルとしたキャラクターもいる。
同世代の山口文憲、呉智英と親しく、共に中年独身を称している。
山口文憲との共著「東京的日常」によれば、80年代は「バイクにのって、あちこちのファミレスを行きかいしながら、原稿を書く」生活スタイルを公言しており、各ファミレスのメニューには詳しかった模様。
日本には「知識人」はおらず、「知識的大衆」がいるだけだと言う。
無聊を晴らすために朝日カルチャーセンターの韓国語講座に通ったことから、韓国に興味を抱き、1979年12月に初めて韓国へ。以降、韓国には何十回も滞在。後の作品となる『ソウルの練習問題』や『海峡を越えたホームラン』にも結びついた。また、東南アジア、ヨーロッパ、中南米への旅行も度々行っている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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