この存命人物の記事には、出典がまったくありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。
出典検索?: "関島眞頼"
関島 眞頼(せきじま まより、1959年3月8日 - )は、日本の男性脚本家。神奈川県横浜市出身。明治大学商学部卒業。ABO式血液型O型。初期は関島 真頼の表記を使用していた。 まだアニメ雑誌が創刊されていない頃からの長いアニメおたく歴を誇るとともに、アニメ以外にも多種多彩な趣味を持つ。日本酒に凝っている。[1] 本来はアニメ演出家志望だったが、大学卒業後に入社した竜の子プロダクション、手塚プロダクションでは企画営業部や企画文芸部に配属されて断念。この時期にアニメ演出家のうえだひでひとの下に付き、アニメのノウハウを学ぶ。1984年にアニメ脚本家の小山高生と出会い、私淑して「一番弟子」を名乗るが、小山がそれを認めず「舎弟」となる。従って小山高生門下でありながら、小山の主宰する脚本家集団・ぶらざあのっぽ
概要
ジャンルは子供向けアニメから深夜アニメまで幅広い。アニメの脚本を担当するだけではなく、シリーズ構成として作品全体のストーリーに関わることが多く、初期はタツノコプロ作品、あかほりさとるら小山高生門下の脚本家が関わる作品、1990年代後半から2000年代前半はOVA版『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』をはじめとして新房昭之監督の作品でシリーズ構成などを務めることが多かった。
2019年度より、大阪芸術大学キャラクター造形学科・客員教授。[3]
この節の加筆が望まれています。
参加作品
テレビアニメ
OKAWARI-BOY スターザンS (1984年、文芸担当・脚本)※うえだひでひととの共同ペンネーム「植島秀頼」名義で執筆
よろしくメカドック (1984年-1985年、文芸担当)
昭和アホ草紙あかぬけ一番! (1985年-1986年、文芸担当)
光の伝説 (1986年、文芸担当)
ドテラマン (1986年-1987年、文芸担当)
赤い光弾ジリオン (1987年、文芸構成)
赤い光弾ジリオン 激闘編 (1987年、文芸構成)
天空戦記シュラト (1989年-1990年、シリーズ構成・脚本)※小山高生と連名