伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年7月)
日本の政治家関屋 貞三郎せきや ていざぶろう
関屋 貞三郎
生年月日 (1875-05-04) 1875年5月4日
出生地栃木県足利郡御厨町[1]
没年月日 (1950-06-10) 1950年6月10日(75歳没)
出身校東京帝国大学法科大学
称号正二位勲一等瑞宝章
親族木内孝胤(曾孫)
関屋敏子(従妹)
渡部信(従弟)
長田_太郎(岳父)
貴族院勅選議員
在任期間1933年12月5日 - 1946年4月13日
官選 第17代 静岡県知事
在任期間1919年8月20日 - 1921年3月9日
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関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5月4日 - 1950年〈昭和25年〉6月10日)は、日本の官僚・政治家。
宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。
年譜
1899年(明治32年)7月10日 - 東京帝国大学法科大学卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日文官高等試験合格。
1900年(明治33年)5月26日 - 台湾総督府参事官。
1902年(明治35年)1月10日 - 兼大蔵省参事官。
1903年(明治36年)7月29日 - 兼内務大臣秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。
1904年(明治37年)2月25日 - 免兼官、兼台湾総督秘書官。
1905年(明治38年)5月19日 - 兼関東州民政署事務官。7月31日関東州民政署事務官兼台湾総督府参事官。
1906年(明治39年)9月1日 - 関東都督府事務官兼関東都督府民政署長。
1907年(明治40年)10月9日 - 佐賀県事務官、内務部長。
1908年(明治41年)6月12日 - 鹿児島県事務官、内務部長。
1910年(明治43年)10月1日 - 朝鮮総督府学務局長。
1917年(大正6年)10月8日 - 朝鮮総督府中枢院書記官長兼朝鮮総督府学務局長。
1919年(大正8年)8月20日 - 静岡県知事。
1921年(大正10年)3月9日 - 宮内次官。
1933年(昭和8年)2月25日 - 依願免本官。12月5日貴族院議員[2](勅選、昭和21年4月13日まで[3])。
1935年(昭和10年)2月 - 日本銀行監事。
1939年(昭和14年)6月 - 中央協和会
寺山季三カ
良純ウタ長田_太郎渡邉コト渡邉邁
大石カツ
小林わか貞三郎キヌ渡部信
正彦木内淑子友彦光彦奈良橋由香健彦平福美恵
関屋家は二本松藩藩医の家系で、関屋敏子は関屋のいとこである[10]。
関屋敏子の外祖父はチャールズ・ルジャンドル(外交官、米陸軍准将)、伯父は15代目市村羽左衛門、曽祖父は松平春獄(福井藩16代藩主)、すなわち高祖伯父は徳川家斉(江戸幕府第11代将軍)である。
父親は関屋良純、母親はウタ(寺山季三カ二女)。母ウタの妹コトの子、即ち従弟に渡部信。
妻のキヌ(衣子)は長田_太郎の娘。日本聖公会聖アンデレ教会信徒。
長男・関屋正彦(1904-1994)は一高、東京帝大法科、内務省と進むも長野県庁出向時に辞職、母親の影響で日本聖公会の信徒であったことから聖職者を志し、1930年にケンブリッジ大学ウエスト・コット・ハウス神学校に留学、1932年に帰国し東京北区滝野川に開拓教会と学生塾「一心塾」を開いた[11]。1937年には、日本の中国侵攻を説明する外務省特使としてロンドンに派遣、帰国後聖公会の牧師を辞職し、1942年にはユダヤ人難民の世話のため日本海軍武官府嘱託として上海に赴き、実吉敏郎の配下として上海無国籍難民指定居住区の開設に尽力ののち1943年に辞して、聖ヨハネ大学教授となる[11]。残留日本人や中国人の戦後処理を手伝ったのち、1947年に帰国、普連土学園校長、ニュージーランド・マッセー大学日本語講座講師(1966-1969)、聖公会牧師を務め、定年退職後、立教英国学院の校長として再渡英し、晩年は紀尾井町の自邸で聖書講読会を主宰した[11]。