関孝和
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関 孝和文化人切手(1992年)

関 孝和(せき たかかず、生年不詳 - 宝永5年10月24日1708年12月5日〉)は、日本江戸時代前期の和算家(数学者)。本姓藤原氏(結城一族)。旧姓は内山氏、通称は新助。は子豹、は自由亭。
生涯

関孝和の生涯については、あまり多くが伝わっていない。養子の関新七郎久之が重追放になり、家が断絶したことが理由の一つである。

上州藤岡(現在の群馬県藤岡市)の武士、内山七兵衛永明の第二子として生まれる。生年は寛永12年(1635年)から20年(1643年)の間で諸説あり、はっきりしない。生誕地は上野国藤岡と江戸小石川の2説ある。実父が寛永16年(1639年)に藤岡から江戸に移っているので、生年がそれ以前ならば生地は藤岡、それ以後なら生地は江戸と推測される。

5歳のころ、関家の関五郎左衛門の養子となり、また、当時の数学書である吉田光由の『塵劫記』を独学し、さらに高度な数学を学ぶ。甲斐国甲府藩山梨県甲府市)の徳川綱重とその子である綱豊(徳川家宣)に仕え、勘定吟味役となる。綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めとなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。

孝和は甲府藩における国絵図(甲斐国絵図[注 1])の作成に関わり、また平安時代以来改暦が行われていなかった宣明暦に変えて授時暦を深く研究して改暦の機会をうかがっていたが、その後渋川春海により貞享暦が作られたため、暦学において功績を挙げることはかなわなかった[1]

宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去した。牛込弁天町(現在の東京都新宿区)の浄輪寺に葬られている[2]
死後

弟子に建部賢弘や荒木村英がいる。

関の死後もその学統(関流)はめざましく発展し、山路主住に至り免許制度などを整え、和算の圧倒的な中心勢力になる。有力な和算家はほとんどが関流に属するようになっていった。

関孝和は関流の始祖として、算聖とあがめられた。明治以後、和算が西洋数学にとって代わられた後も、日本数学史上最高の英雄的人物とされた。

上毛かるたでも「和算の大家 関孝和」[注 2]と詠われている。

明治40年(1907年)、従四位を追贈された[3]

関孝和の銅像と顕彰碑(群馬県藤岡市)

関孝和の銅像

関孝和の墓(藤岡市光徳寺)

業績『発微算法』(複製)。国立科学博物館の展示。

関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)に『発微算法』を著し、点竄術(てんざんじゅつ)による代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。世界で最も早い時期に終結式を用いた変数消去の一般論を見出した。この終結式の表現において行列式に相当する式が現れている。

また暦の作成にあたって円周率近似値が必要になったため、1681年頃に正131072角形を使って小数第11位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159265359微弱」[注 3][注 4]だったが、エイトケンのΔ2乗加速法[4]を用いた途中計算では小数点以下第16位まで正確に求めている[5]。これは世界的に見ても、数値的加速法の最も早い適用例の一つである(西洋でエイトケンのΔ2乗加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによってである[5][6])。ヤコブ・ベルヌーイとは独立かつやや早くにベルヌーイ数を発見していたことも知られている[注 5]ベルヌーイ数二項係数について書かれた『括要算法』(1712年)の頁

一方で、西洋の微分積分学の発展より前に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長・求積に関する業績を挙げており、今日の微分法積分法の基礎を発見していた。関がアイザック・ニュートンゴットフリート・ライプニッツよりも前に微分積分学を創始したとするには異論があるが、基礎の発見を先に成しえていたのは事実である。

無理数などの不尽数を連分数や分数で近似する零約術について論じた[7]
点竄術

関の最大の業績は、天元術を革新して傍書法・点竄術を確立したことである。これは記号法の改良と理論の前進の双方を含み、後に和算で高度な数学が展開するための基礎を提供した。

天元術は中国で発達した代数的解法である。求める数を未知数(天元の一と呼ぶ)とし、演算を施して方程式を立てる。問題を1元方程式に帰着できれば、次数に拘わらず算木によるホーナー法で近似的に解けた。しかし明代に入ると中国では天元術は衰え、もっぱら李氏朝鮮で継承されてゆく。朝鮮での発展や日本への流入の過程は今日でも不明な点が多い。日本では17世紀に入ってから、主に京阪の和算家の橋本正数・沢口一之らによって熱心に研究された。沢口の『古今算法記』(寛文10年、1670年)は、天元術の学習がほぼ完了したことを示している。

天元術には多変数の高次方程式を扱えない欠点があった。これは未知数を記号ではなく算木を置く場所で表現しているからで、例えば (1 3 4) の配置は1変数の多項式 1 + 3 x + 4 x 2 {\displaystyle 1+3x+4x^{2}} または多変数の1次式 x + 3 y + 4 z {\displaystyle x+3y+4z} のいずれかを表す[注 6]。したがって2個目以降の未知数を文章による議論で消去してから、天元術を用いらねばならなかった。


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