せきぐち たかよし
関口 隆吉
生誕 (1836-10-26) 1836年10月26日
江戸(現在の東京都)
死没 (1889-05-17) 1889年5月17日(52歳没)
日本
国籍 日本
別名字:艮輔、号:黙斎
職業武士、教育者、政治家
配偶者睦(のちに改名し綾)
子供関口壮吉 新村出 加藤周蔵 関口鯉吉 関口隆正 関口操 関口万寿
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関口 隆吉(せきぐち たかよし、天保7年9月17日〈1836年10月26日〉 - 明治22年〈1889年〉5月17日)は、幕末の幕臣で、明治時代の政治家、初代静岡県知事[1]。静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立者の一人。字は艮輔(ごんすけ)[1]。号は黙斎[1]。
生涯
少年期の次男として生まれる[2]。関口家は今川一族の関口氏広の子孫であり[1]、父・隆船は佐倉村(現在の静岡県御前崎市佐倉)の池宮神社出身[3]。
天保10年(1838年)、父の隆船が与力に任ぜられ、牛込赤城町へ転居[4]。
嘉永元年(1848年)、斎藤弥九郎の練兵館に入門する[2]。当時の塾頭は兄弟子となる桂小五郎であった[3]。 嘉永3年(1850年)に15歳になり元服する[2]。嘉永5年(1852年)に17歳で父の跡を継ぎ、御持弓与力となる[2]。嘉永6年(1853年)、吉原守拙の門下となり兵法を学ぶ[3]。安政5年(1858年)、大橋訥庵に入門し、尊王攘夷の思想に傾倒[2][3]。この頃、久坂玄瑞や金子与三郎らと交流があった[2]。安政6年(1859年)、24歳で武家の師である稲生虎太郎の娘と結婚するも翌年の万延元年(1860年)10月17日に死別[5]。 文久2年(1862年)、御持弓与力の職を義弟の鉦次郎に譲る[2]。これは同年の坂下門外の変において老中・安藤信正を襲撃したとの嫌疑を避けるためであった[2]。翌文久3年(1863年)、28歳で山田宗弥の娘・睦(のちに改名し綾)を妻とする[2]。 慶応3年(1867年)、開国論者の勝海舟の暗殺を企てるが、未遂に終わる[1][3]。海舟は隆吉に鐙斎(とうさい)とニックネームを付け二人は親友となる[6]。同年の大政奉還を幕臣として迎える[3]。 慶応4年(1868年)徳川慶喜御謹慎所勤方、さらに身辺警衛精鋭隊頭取並および町奉行支配組頭となり、慶喜の警護役を務める[2][3]。江戸城明け渡しにも立会い、市中取締役頭に就任、勝海舟や山岡鉄舟、松岡万らと盟約を結び、徳川慶喜を駿河に遷すなど、幕末の戦後処理と新時代の確立のために尽力した[2]。 明治4年(1871年)、廃藩置県により明治政府に請われ出仕し、上京する[2][3]。 三潴県(現在の福岡県)権参事、置賜県(現在の山形県)参事ののち[2]、第2代山形県権令(明治6年(1873年) - 明治8年(1875年))・第2代山口県県令(明治8年(1875年) - 明治14年(1881年))を歴任する[7]。山口県県令時代の明治9年(1876年)、前原一誠・奥平謙輔らの萩の乱を鎮圧し、「山口の賢県令」と呼ばれた[8][9]。同年、長男の壮吉が月岡で誕生する[8]。 明治14年(1881年)、46歳のとき元老院議官に就任し東京へ移住[3]、地方巡察使として一府五県(東京・千葉・茨城・神奈川・静岡・愛知)の調査を行い[1]、高等法院陪席判事、第3代静岡県県令(明治17年(1884年) - 明治19年(1886年))を歴任する[8]。当時、「地方の令は他貫のものを充当する」すなわち出自に関係する地の県令には就任できないというルールがあったため、隆吉の静岡県県令就任は異例のことであった[10][9]。
幕臣時代
明治維新月岡八穂神社(静岡県菊川市) 隆吉の屋敷跡や顕彰碑がある
県令時代