関口新心流
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関口新心流柔術せきぐち
しんしんりゅうじゅうじゅつ
組合 赤首
別名関口流、新心流、関口真心流
発生国 日本
発生年江戸時代初期
創始者関口氏心
派生種目澁川流、関口天羽流
大東流 (関口系)
伝承地和歌山県和歌山市
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関口新心流柔術図・文化9年 (1812年) に安井金比羅宮へ奉納された秘術図とされる絵馬から復元

関口新心流(せきぐちしんしんりゅう)は、江戸時代初期に関口氏心(せきぐちうじむね)が開いた柔術流派である。 柔術という語の嚆矢であるとされている。

柔術と併せ剣術居合術も伝承し、この三術で一武術体系を築く流派で、幕末まで紀州徳川家御流儀のひとつであった。

関口流、新心流と称する伝系もある[要出典]。目次

1 歴史

1.1 流名の由来

1.2 流祖


2 内容

3 系譜

4 流儀歌

5 逸話

6 渋川流

7 関口流抜刀術

8 その他

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史

関口氏は今川氏庶流であったが、松平元康(徳川家康)の正室 築山殿が関口氏出身であったこと、桶狭間の戦い以後の今川氏の没落、今川氏真との確執により、松平氏(徳川氏)に仕えることとなる。氏心の父・関口外記氏幸は家康の嫡子松平信康の家臣であったが、信康の死後は浪々の身になったとされる[1]
流名の由来

氏心が「日々、新たなる心で工夫を成し」柔(やわら)を大成したことに因み、関口新心流としたと伝えられる。藩によっては関口真心流と表記する場合もある。
流祖

関口氏心の自著『柔新心流自序』によると、特に師に就かず独自の研究で関口新心流を編み出したと書かれている。
「余蚤歳より斯の術に志あり。独限師承無し」

また、『紀藩柔咄集』によると氏心 (隠居剃髪後の号から、「柔心・じゅうしん」とも呼ぶ)は幼少の頃より武芸で身をたてることを決意し、諸国修行のうち居合の始祖とされる林崎甚助から[2]居合術、三浦義辰から組討術[3]、長崎にてもろこしの拳法[4]などを修行し、自らの工夫をこらし柔を大成したと伝えられる。『柔新心流自序』と『紀藩柔咄集』等の記述から、廻国修業で様々な流儀を見て、それらを参考にし独自の研究で編み出したという説が有力である。『関口新心流柔之意趣』では、他国に徘徊して教えていたと書かれている。

当初は信昌の孫、松平忠隆加納藩主)に仕えたが、忠隆の死後は本多氏「本多政朝姫路藩主)、本多政勝郡山藩主)」に仕えたが出奔、大久保忠職明石藩主)預かりとなったのち、徳川頼宣紀州藩主)に客分として召し出された。



内容
柔術

手続   八本
楊柳、臂金、爪返、引違、俤、膝車、靡勝、鬼拳
撓合   八本
振込、返り撓、飛違、突込、肩附、奏者捕、奏者返、羽返
四の捕 四本
向の捕、右脇奏者、後の両臂、左脇抱倒
固    七本
右居の曲、風呂詰、小鳥緊、鳥の子、水鳥、大殺、千人白
車捕  十六本
脇差の取(前)、脇差の取(右)、脇差の取(後)、脇差の取(左)大小の取(前)、大小の取(後)、大小の取(右)、大小の取(左)脇差柄取解(前)、脇差柄取解(後)、脇差柄取解(右)、脇差柄取解(左)大小柄取解(前)、大小柄取解(後)、大小柄取解(右)、大小柄取解(左)
立合 六本
行合(右)、行合(左)、行連(右)、行連(左)、前後の投(前)、前後の投(後)
組合   十本
四つ手(三本)、赤首(二本)、懸の止(二本)、投の残勝(二本)、大殺
立合大小 八本
大小取(前後左右)、大小柄取解(前後左右)
自己の誤 七本
自己、外足、杉倒、行逢投残勝、行連右刎、行連(後)、行連左脇
小具足 二十本
押突、引付、踏違、相捕、片男波、突脇差引脇差、手続取、帰り捕、碪、朽木捕甲引付、後透し捕、後髪頭、仰笛の刀仰裏の刀、夢之枕、突脇差挟取、水車、拂切
中段固 十三本


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