せきぐち つぎお
関口 存男
生誕1894年11月21日
兵庫県姫路市
死没1958年7月25日(64歳没)
東京都
国籍 日本
出身校陸軍士官学校
上智大学
著名な実績ドイツ語教授法の革新、意味形態論の研究
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関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11月21日 - 1958年7月25日)は、日本のドイツ語学者(ゲルマニスト)。通称:ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある[注 1])。
ドイツ語以外にも様々な言語に通じており、「不世出の語学の天才」と呼ばれた[2]。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していた。 この節の出典は(関口存男の生涯と業績, p. 503-507)による
経歴
兵庫県姫路市生まれ。父・関口存啓
1916年、陸軍を休職して上智大学に入学。1917年、上智大学に籍を置きつつアテネ・フランセに入学。そのわずか1年後の1918年2月、アテネ・フランセ初等科の仏語教授となる。1918年10月、アテネ・フランセ初等科のラテン語教授となる。1918年11月、予備役となる。
1919年、上智大学哲学科を卒業し、外務省翻訳課に勤務。1922年、法政大学予科講師となる[注 2]。1933年、法政大学文学部教授。同年、いわゆる法政騒動で同僚の内田百たちを法政大学から追放。1938年から1941年にかけて現在のNHKの前身である社団法人日本放送協会のラジオ放送でドイツ語講座を担当。1942年、法政大学に在職のまま慶應義塾外国語学校講師となる。1943年、法政大学教授辞職。1944年、法政大学予科教授を辞職し、外務省外国語学校教官となる。1946年、公職追放により慶應義塾外国語学校辞職。1950年、高田外国語学校講師となる。1951年、慶應義塾外国語学校に復職。1952年、早稲田大学文学部・文学研究科と慶應義塾大学文学部の講師となる。1955年からNHKドイツ語初等講座担当(死去まで)。1956年、慶應義塾大学文学部講師辞任。1958年、脳溢血により死去。享年64。 留学経験皆無ながら高度なドイツ語能力を身につけ、発音[注 3]も極めて流暢だったと伝えられる[5]。「ドイツ語の鬼」と言われるほど、あまりにドイツ語ができたために、人に憎まれていたという[6][注 4]。こうした逸話は、以下のようにドイツ語学者以外からも伝えられている。 ナチを逃れて仙台に亡命していたカール・レーヴィットが、森田草平(法政大学の予科で関口と同僚であった)から送られてきたドイツ語で書かれた手紙を読んで、すこぶる達者なドイツ語だったので、「若しやこれを譯したのはナツィ系の獨逸人ではないか」と気味悪がり、文体から見て日本人ではないことはもちろん、「惡質のJournalist」が介在するのではないかと推測していたというが、実際にはこの手紙は関口が訳したものであり、しかも森田が口で言うことを端からドイツ語でタイプライターで打っていったという[8]。 ドイツ文学者の小塩節(中央大学名誉教授)も、レーヴィットが、関口をして「ドイツ人よりドイツ語が出来る」と評していた旨を述懐している[9]。 また、元裁判官でローゼンベルク
学者としての顔
逸話