関内
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この項目では、横浜市の地域について説明しています。その他の用法については「関内 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
日本大通(右手前は神奈川県庁舎

関内(かんない)は、神奈川県横浜市中区にある横浜市の中心市街地にあたる地域の通称。「関内」という行政上の地名は存在しない。大岡川首都高速横羽線、堀川(中村川の延長開削部)と海に囲まれた地区を指し示し、国土交通省都市景観100選に選定されている。

関内区域は、西区横浜駅周辺とともに横浜市における都心(ツインコア)の一つである横浜都心に指定されている[1]。また、関内・関外地区は「横浜都心・臨海地域」の一部として都市再生特別措置法による特定都市再生緊急整備地域に指定されている(2018年10月指定)[2][3]
概要幕末・明治の横浜外国人居留地は上図のように掘割で仕切られ入口の橋に関所が設けられたことから関内居留地とも呼ばれ、その通称が今に残る

日米修好通商条約安政五カ国条約)によって1859(安政6)年に横浜に設置された開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、住所表示上の正式な地名として関内という地名はない。ただし、国道16号新横浜通りのキロポストや方向標識には関内と表示されている。馬車道中華街山下公園など古くからの観光地が多く、隣接するみなとみらい地区と並び多くの観光客で賑っている。また、神奈川県庁舎横浜市役所神奈川県警など官公庁や企業が集まる、横浜の中心地である。横浜港が開港して以来西洋文化を一気に取り込み、アイスクリームビールガス燈など、横浜市の発祥とするものが多くあり、昭和初期の近代洋風建築が残されている。

地域内にある駅はJR根岸線関内駅石川町駅横浜市営地下鉄ブルーライン(1・3号線)関内駅横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅日本大通り駅元町・中華街駅である。

2004年のみなとみらい線の開通により横浜駅周辺、みなとみらい地区との交通アクセスが一層容易になり、街の再活性化が進んでいる。一方、社会・経済情勢の変動に伴い、古い事務所舗ビルを取り壊してマンションを建設・分譲する動きが目立ち都市計画上の課題となったため、横浜都心機能誘導地区建築条例が制定され、関内駅周辺はマンション建設が規制されている(これは横浜駅周辺も同様)。

なお、関内駅は、JR根岸線のほかに、横浜市営地下鉄ブルーラインが乗り入れている関係で、地下にマリナード地下街と呼ばれる商店街があり、地下街自体が、地上の吉田橋と同様に、関内駅から伊勢佐木町側へ通り抜ける連絡ルートとなっているため、伊勢佐木町の入り口付近までは、関内駅の構内とみなす場合がある。

しかし、地名の由来的には、関内駅の位置は、海から離れた関内地区の南西の端に当たり、そこよりも南西にある伊勢佐木町は「関外」である。

原則として、伊勢佐木町は「関外地区」であるが、鉄道路線の関内駅の構造を考慮して、ガイドブックなどの地域別情報の場合では、雑誌などの編集上の都合から、伊勢佐木町の一部も関内に分類する例が見られる。ただし、伊勢佐木町を関内に含めることは、あくまで誌面上の便宜的な措置であって、地名の定義が変わったわけではない。この点は、正確に伊勢佐木町一帯を示した「関外」という呼称が、ガイドブックの主要な利用者である市外からの来訪者にとって、あまり知られていないことから、分かりやすく駅名の表示に合わせたという事情に関係する。

施設名称に「関内」の名を冠した例として、コンサート会場などに使われる関内ホールは、馬車道商店街の中に位置するので、文字通り、関内地区にあるといえる。

山下公園

横浜中華街

横浜税関

日本郵船歴史博物館

旧横浜生糸検査所

横浜市開港記念会館

地名の由来

かつて関内周辺は海であった。現在の大岡川中村川に囲まれた一帯は「洲乾湊」と呼ばれた入り江であり、久良岐郡横浜村は洲乾湊に蓋をするように南東から北西へ伸びる「洲干島」(洲乾島・宗閑島・秀閑島とも表記)と呼ばれた砂州上に形成された寒村であった。洲乾湊の上流側が1667年吉田新田として埋め立てられたのに対して、現在の関内地区に相当する洲乾湊の下流側の埋立は遅く、1812年に洲干島の付け根の内側にあたる箇所が横浜村請負で横浜新田として埋め立てられ(現在の横浜中華街)、1856年に残りの箇所が太田屋新田として埋め立てられた。吉田新田と太田屋新田は陸続きとせず、両者の間には派大岡川が残された。1859年横浜港開港に際して洲干島にあった横浜村の集落は元町へ移転させられ、翌1860年に中村川を延長開削する形で洲干島の付け根を寸断する堀川が開削され、大岡川・派大岡川・堀川に囲まれた関内が形成された。

江戸幕府アメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」(神奈川の横にある浜、横に伸びた浜)を神奈川の一部と称し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。

神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、間にある大岡川の分流「派大岡川」に「吉田橋」を架け、横浜港が開港した安政6年にその橋に関門という関所のようなものを置いた[注釈 1]。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。現在の地域名はこのことに由来する。神奈川運上所(今の県庁のある場所)の西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。

1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けないようにし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から旧居留地に至る道が、今の「馬車道」である。

現在、派大岡川が流れていた所は首都高に、橋は道路と一体になってしまい、石碑でそこに川が流れ、橋が架かっていたことが解るのみである。吉田橋は鉄の橋として1869年に架け替えられた[注釈 2]。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントンというイギリス人技師。

近代化が進むにつれ関門の存在意義が薄れ、明治4年に廃止されたが、長年の慣習と名残りで今もこの辺りを「関内」と呼んでいる。また、今の伊勢佐木町付近一帯の元吉田新田は関門の外、「関外地区」と呼ばれた。現在関内と名が付いている公的施設は、JR・横浜市営地下鉄の関内駅関内ホール(横浜市市民文化会館)のみである。

キングの塔(神奈川県庁本庁舎)・クイーンの塔(横浜税関)・ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は、地元では「横浜三塔」と呼ばれ、横浜港のシンボルとして長年市民に親しまれている。(横浜三塔の項参照)


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