関ヶ原の戦いの戦後処理
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関ヶ原の戦いの戦後処理(せきがはらのたたかいのせんごしょり)では、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いの後の、東軍・徳川家康方に加担した武将の論功行賞と、西軍・石田三成方へ加担した武将への戦後処理についてまとめた。

各武将の動向は主に『戦国人名辞典』・『日本史総覧』に典拠するものである。また、表は五十音順である。
東軍
加増

領地を加増された武将については、その大半が関ヶ原の戦い本戦に従軍した武将で占められている。ただし最も石高を加増されたのは家康の二男で結城氏の家督を継いだ結城秀康であり、上杉景勝の南下を抑制した功によって一挙に石高が670,000石(6倍以上)になっている。また加増率では織田長益(有楽斎)が蒲生頼郷の首級を挙げた功で開戦前に比べ16倍の加増率(32,000石)となった。

また、上杉氏の攻撃を防ぎ切り、関ヶ原本戦後から翌春まで上杉領に侵攻した最上義光も2倍以上の石高(570,000石)となった。豊臣氏恩顧の大名も軒並み大幅に加増され、加増により国主となった武将には前田利長加賀越中能登)、福島正則安芸備後)、小早川秀秋備前美作)、堀尾忠氏出雲隠岐)、加藤清正肥後)、黒田長政筑前)、細川忠興豊前)、浅野幸長紀伊)、田中吉政筑後)、山内一豊土佐)、中村忠一伯耆)、京極高次若狭)、京極高知丹後)がいる。

しかし、彼ら豊臣恩顧の武将は加増された代わりに中国地方や九州など西日本の遠隔地へ移封となり、畿内東海道などの要衝は徳川一門や準一門といえる家康の女婿、および譜代大名でことごとく固められた。先の結城秀康は北陸道を押さえる越前一国、家康四男・松平忠吉は東海道を押さえる尾張一国、家康の次女・督姫を娶った池田輝政は西国と畿内を結ぶ播磨一国、伊達氏上杉氏の監視目的として家康五男・武田信吉常陸水戸15万石、家康の三女を娶った蒲生秀行陸奥会津60万石をそれぞれ与え、国主・準国主として一門や準一門を配置。また井伊直政近江彦根に封じたのを始め、美濃信濃伊勢三河遠江駿河といった東海道・中山道筋や畿内には譜代大名を大幅に増加させて入封させ、江戸の防衛と豊臣氏および西国外様大名の監視を行わせた。こうした家康の政策は豊臣氏対策に大いに効果を上げ、江戸幕府が260年続く基礎となった。

そして徳川家康本人は自らを開戦前の255万石から一挙に400万石へと145万石加増し領地を拡大、主要都市や佐渡金山石見銀山などを直轄領とすることで豊臣氏を始めとする他の大名と隔絶した地位を占めることにより絶対的な権力を確立。1603年(慶長8年)の征夷大将軍任命への下地を形成し、これらの直轄領は天領として幕府財政の基盤になった。

武将名旧領石高(石)合戦での動向新領石高(石)備考
青山忠成相模近江国内7,000信濃上田城攻撃上総下総国内15,000徳川譜代
青山成重下総香取郡内3,000信濃上田城攻撃上総下総国内5,000徳川譜代
赤井忠家播磨三木郡内1,000本戦大和十市郡内2,000
秋元長朝上野碓氷4,000対上杉守備隊上野総社10,000徳川譜代。上杉景勝への降伏要請の使者を務める。
秋山直国--本戦大和十市郡内3,000
浅野長重--江戸城留守居下野真岡20,000長政三男。
浅野長政--江戸城留守居常陸真壁郡50,000隠居料
浅野幸長甲斐府中225,000本戦紀伊和歌山376,000長政長男。
蘆野政泰下野芦野800対上杉守備隊(同左)2,700那須資晴旧臣、那須七騎
阿部正次武蔵鳩ヶ谷5,000本戦武蔵・相模国内10,000徳川譜代
天野康景武蔵国内3,000江戸城留守居駿河興国寺10,000徳川譜代
有馬豊氏遠江横須賀30,000本戦丹波福知山60,000則頼二男
有馬則頼播磨三木10,000本戦摂津三田20,000
井伊直政上野高崎120,000本戦近江彦根180,000徳川譜代
伊王野資信下野伊王野740上杉景勝と交戦(同左)2,740那須資晴旧臣、那須七騎
池田知正摂津・近江国内2,700本戦(同左)5,000
池田輝政三河吉田150,000本戦播磨姫路520,000
池田長政三河新城7,000本戦播磨赤穂22,000輝政弟。赤穂の石高は池田本家より分知。
池田長吉近江国内30,000本戦因幡鳥取60,000輝政弟。長束正家を捕縛。
石川康通上総鳴渡20,000尾張清洲城守備美濃大垣50,000徳川譜代
板倉勝重武蔵新座1,000江戸城留守居三河国内6,600徳川譜代
市橋長勝美濃今尾10,000美濃福束城攻撃(同左)20,000
稲垣長茂上野・下野国内3,000対上杉守備隊上野伊勢崎10,000徳川譜代
稲葉道通伊勢岩手25,000九鬼嘉隆と交戦伊勢田丸45,700


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