閖上(ゆりあげ)は、宮城県名取市の大字および町丁。郵便番号は981-1213[2]。人口は87人、世帯数は47世帯(2024年4月30日現在)[1]。現行行政地名は閖上一丁目および七丁目であり、ほか多数の小字を擁する。住居表示は全域で未実施[4]。旧陸前国名取郡閖上浜、宮城県名取郡東多賀村大字閖上、名取郡閖上町大字閖上、名取郡名取町閖上。
名取川南岸の、太平洋に面する場所に位置する。漁港を有する港町である。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による津波で大きな被害を受け、復興が進められている。 江戸時代前期の1697年、仙台藩主・伊達綱村が大年寺の落慶法要に参拝しての帰途、山門内からはるか東方に見えた波打つ浜を「あれは何というところか」と問うたところ、近侍の者が「『ゆりあげはま』にございます」と答えた。重ねて「文字はどう書くのか」と問うたところ、「文字はありません」と答えた。これを受けて綱村は「門の内から水が見える故に、今後は門の中に水と書いて閖上と呼ぶように」と言い、仙台藩専用の「閖」という文字が出来た故事がある。また閖は「揺れる(ゆれる)」に同じで、『龍龕手鑑』に同字がある[5][6]。 江戸時代には仙台藩直轄の港で、仙台に魚介類を売り栄えた。半農半漁の地帯で、農民と漁師の風習・言葉遣いが混在する地域だった。 1889年(明治22年)、閖上を含む5つの村が合併して東多賀村が発足した[7]。この時点で閖上には380世帯があった。このうち100世帯が漁業を専門とし、180世帯は漁業と農業または漁業と商業を兼業していた。閖上には10トン以下の小型船が30艘あった。これに7人から10人が乗り込み、10海里程度の範囲で沿岸漁業を営んでいた。閖上には5軒の魚問屋があり、競り落された魚は仙台や周辺の町村に行商で売りに出された。マグロやカツオの最盛期には特に活気があったという。1903年(明治36年)に閖上浜漁業組合が結成され、共同して漁業の改善が取り組まれた[8]。 大正時代になると焼玉エンジンやディーゼルエンジンが普及し漁船の動力化が進んだ。これに伴って漁船が大型化し、操業海域も15海里程度まで広がった。1922年(大正11年)には製氷会社が開業し、閖上で水揚げされた魚が福島県や東京など宮城県外にも送り出されるようになった。この頃、閖上の港に他地域の船も水揚げのために入港した[9]。 1924年(大正13年)に41人の発起人が軽便鉄道の敷設を目指して増東軌道株式会社を立ち上げた。東北本線の増田駅(現在の名取駅)から閖上の間に軌道が敷設され、1926年(大正15年)に営業運転が開始された。旅客輸送、貨物輸送共に扱っていたが、1938年(昭和13年)に鉄道営業を止め、バスによる旅客輸送に転換した。1943年(昭和18年)に仙台市営バスが同じ区間で運行を始めたのに伴って、増東軌道株式会社は解散した[10]。 この間、1928年(昭和3年)に東多賀村は町制を施行して閖上町となった[7]。この頃になると、漁船の航海距離がさらに延びて日帰り操業ではなくなる。
由来
歴史ヨットの大会。