閔妃
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「閔妃」のその他の用法については「閔妃 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「明成皇后」はこの項目へ転送されています。テレビドラマについては「明成皇后 (テレビドラマ)」をご覧ください。

閔妃 / 明成皇后
??/????
朝鮮王妃
在位1866年3月20日 - 1895年10月8日
別称号

純敬王后[1]金弘集内閣による)文成王后[2](改諡)

全名閔?暎
別称孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后[3](諡号)
出生咸豊元年9月25日1851年11月17日
朝鮮国
京畿道驪州郡近東面蟾楽里
死去開国504年8月20日( (1895-10-08) 1895年10月8日(43歳没))
李氏朝鮮
漢城府
埋葬大正8年(1919年3月3日
日本統治下朝鮮
京畿道南楊州市金谷洞、洪陵
配偶者高宗
子女純宗
氏族驪興閔氏
父親驪城府院君閔致禄
母親韓昌府夫人李氏
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閔妃
各種表記
ハングル:?? / ???? / ???
漢字:閔妃 / 明成皇后 / 閔 ?暎
発音:ミンビ / ミンピ / ミョンソンファンフ / ミン・ジャヨン
日本語読み:びんひ / めいせいこうごう / びん じえい
ローマ字:Minbii / Minpi / Myeongseong Hwanghu / Min Ja-yeong
英語表記:Queen Min / Empress Myeongseong
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御宝(印章)。文字は向かって左から縦書き(字体は反転)で
孝慈元聖正
化合天洪功誠
徳斉徽烈穆明
成太皇后宝
である。

閔妃(びんひ、ミンビ、ミンピ、1851年11月17日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)[4]、朝鮮王后(閔氏)とも称される。本貫驪興閔氏。本名は閔 ?暎(びん じえい、ミン・ジャヨン、???)。尊号は孝慈元聖正化合天[5]諡号は孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后[6]仁顕王后の兄・閔鎮厚の5代孫。

国王の正妃として強い権力を持ったが、真霊君の預言依存と閔氏一族を中心に反対派を糾合し、親族を政府の要職に登用する勢道政治を行ったことで、官吏の汚職が蔓延・国庫の浪費もしたため、義父興宣大院君との権力闘争により政局を混乱させた[7][8]。 



概要

日本の指導で開化派政策を取っていた時代に政治的対立していた大院君派と閔妃に不満があった旧朝鮮軍(旧式軍隊)らによる暗殺未遂事件である壬午事変を生き延びたが[9]、後に親清、更には親露に転じた。親露時代に朝鮮訓錬隊・朝鮮警務使・朝鮮人開化派・大院君派など閔妃の国政壟断に不満を持つ朝鮮人と共に[10]、日本軍守備隊・領事館警察官・大陸浪人らが王宮内に侵入する乙未事変で、閔妃は景福宮・乾清宮内で日韓の反閔妃連合に暗殺された[11][12]。死後2日後で、死亡公表前である10月10日に対立していた興宣大院君によって平民の身分に降格された[13]。興宣大院君による措置に高宗と純宗は反発し、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に復位措置が取られている[14]。本来、「閔妃」は「閔氏の王妃」という意味だけであるが、近代朝鮮史や近代日本史、近代世界史では「閔妃」は高宗の妃である「閔 ?暎」を指している[8]。息子である純宗は禹範善が「国母ノ仇(母の仇)」であるとし、それを現場で目撃したと証言している[15]。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らし、また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。そのため、禹範善暗殺時にはその犯人への減刑措置がなされた[16]

李氏朝鮮は大院君と明成皇后は憎悪で対立、政治エリートらは、最初は開化の是非(開化派と衛正斥邪派)、次は方法論(急進開化派と穏健開化派)、その後は、どの列強に頼るべきかについて、最後は権力それ自体を独占で、激しく対立した。ハンギョレによると、李氏朝鮮は「妥協と折衝を通じて社会的合意を形成する方法を知らなかった」と語り、「冒険的クーデター」「政治テロ」が横行した。朝鮮王朝の国庫は空っぽで、清の北洋大臣の李鴻章は「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と語るなど、王朝予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は彼女の死後も続き、日韓併合で国が滅びるときまで変わらなかった[17]
出自

閔?暎(後の閔妃)は、閔致禄の娘として京畿道驪州郡近東面蟾楽里に生まれた。幼名は?暎(チャヨン、朝鮮語: ??)[18]とも伝えられるが、明確にはわかっていない。閔一族はもともと中国系と言われ、中国を宗主と仰いで頻繁に訪問し宮廷から特権を与えられており、一族の規模も大きく、朝鮮最大の領地を持っていた[19]

高宗との結婚

同治5年(1866年)、15歳の時に揀擇で選ばれた5人の候補のなかから王妃に選ばれて王宮に入った。閔が王妃に選ばれたのは、既に父親が亡くなっており、警戒すべき外戚がいなかったこと、大院君夫人が同じ閔氏の出身で、閔氏の娘を気に入っていたこと、神貞王后が豊壌趙氏の出身であることから、その外戚を警戒したことなどにより、大院君が決定した人選といわれる。その当時の高宗は政治と妃には関心を持たず、関心が深いのは専ら多数の宮女妓生達を相手にした漁色と酒といった放蕩三昧のみという愚昧な人物であったとの評もある[20]

王世子身分を巡る大院君との対立・清からの冊封成功

高宗が愛人である李尚宮(のちに淑媛李氏→永保堂貴人李氏。1849 - 1928年)との間に長子である完和君(完親王李?。1868 - 1880年)をもうけると、祖父の大院君は喜び、完和君を王世子(高宗の次の王)にしようとした[21]。しかし、閔妃は自身の子である李?(純宗)を王世子とするため、宗主国であるに側近を派遣して賄賂を贈った。そのため、李?を嫡子として承認(冊封)してもらうことに成功した[21]
大院君との対立の激化・暗殺合戦

世継ぎ問題などで大院君と権力争いをしていた閔妃は、高宗が成人して親政をとるようになると、同治12年(1873年)、大院君を追放し、大院君とその一派を失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居させられたが、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。両者の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものとなった。1874年11月には義兄の閔升鎬が自宅で爆弾によって暗殺された[22]。閔妃は義兄の暗殺は大院君の仕業と信じ、大院君の腹心である申哲均の食客であった張という姓の者を捕え、簡単には死なないようにする惨い拷問の末に獄死した[22]。これは、大院君の恨みを買い、双方で暗殺が続いて国内が乱れた。大院君は、自身が国のために貯めておいた国庫を空にする無駄遣いを繰り返す閔妃を暗殺のために、閔妃によって親族や親友を殺された者から暗殺者を募り始める[22]


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