凡例間部詮之
時代江戸時代中期
生誕延宝2年(1674年)2月
死没享保15年2月13日(1730年3月31日)
別名右衛門(通称)
戒名果還院極誉楽詮深之大居士
官位従五位下・隠岐守
幕府江戸幕府 小姓、作事奉行兼宗門改役
主君徳川家宣→家継→吉宗
氏族間部氏
父母父:西田清貞、母:小川次郎右衛門の娘
兄弟詮房、詮貞、詮之、詮衡、詮言
妻正室:蒔田広蕃娘(※後に離縁)
子養子:詮綽(間部詮衡二男)、養女:間部詮衡娘(細田時敏の妻)
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間部 詮之(まなべ あきゆき)は、江戸時代中期の旗本。間部詮房の実弟。徳川家宣・家継に仕え、本家の鯖江藩主の間部家とは別に分家の本所間部家[1]を興した。
生涯の三男として誕生した。元禄2年(1689年)1月15日、桜田館にて甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)に御目見し、同年1月18日から綱豊の小姓を務める。宝永元年(1704年)、家宣の江戸城西の丸入りにともない幕臣として取りたてられ、西丸小姓になる。その後、たびたび領地を加増され、正徳5年(1708年)には2150石を知行する旗本になった。詮之が急激な出世を遂げられたのは、この頃の幕政を主導した兄の詮房の力によるものと考えられる[2]。
正徳2年(1712年)、家宣が亡くなった後は7代将軍徳川家継の小姓を務めた。正徳6年(1716年)、家継が死去したことで職を解かれ寄合に列する。享保9年(1724年)、作事奉行として要職に復帰し、享保13年(1728年)まで務めた。享保10年(1725年)5月、鯖江藩主間部詮方の後見人になる[3]。享保15年(1730年)2月13日、死去。享年57歳。詮之には実子がいなかったため、家督は養子の詮綽が継いだ。
本所間部家は明治維新まで存続する[2]。 ※日付は旧暦 本所間部家が支配した知行所の一覧。()内は村高と相給者の人数[7]。
略歴
延宝2年(1674年)2月、誕生。
元禄2年(1689年)1月18日、甲府藩主徳川綱豊の小姓になり、蔵米200俵支給。
元禄3年(1690年)9月22日、蔵米50俵加増。
元禄15年(1702年)1月11日、蔵米100俵加増。
宝永元年(1704年)
12月5日、家宣の江戸城西丸入りに付き従い西丸小姓となる。
12月9日、従五位下・隠岐守。
宝永2年(1705年)
3月18日、蔵米200俵加増。計550俵。
閏4月12日、蔵米取りを改め、相模国大住郡の内550石を知行。[4]
宝永5年(1708年)1月21日、下総国相馬郡の内300石加増。
宝永6年(1709年)、西の丸から本丸に移る。
宝永7年(1710年)1月13日、伊豆国田方郡・君沢郡の内500石加増。
正徳2年(1712年)10月14日、家宣死去にともない家継の小姓になる。
正徳3年(1713年)10月23日、伊豆国君沢郡・那賀郡の内500石加増。
正徳5年(1715年)
9月6日、三河国宝飯郡の内300石加増され、計2150石知行。
11月19日、蒔田広蕃の娘との縁組が決定。翌年閏2月3日、婚礼の式を終える。[5]
正徳6年(1716年)5月16日、寄合。
享保9年(1724年)1月11日、作事奉行に就任。
享保10年(1725年)5月17日、間部詮方の後見人だった間部詮貞
享保12年(1727年)1月15日、宗門改役を兼任。
享保13年(1728年)3月19日、病気を理由に作事奉行を辞職し寄合。[6]
享保15年(1730年)2月13日、死去。
本所間部家歴代当主
間部詮之
間部詮綽
間部方元
間部詮邦
間部詮昌
間部詮論
間部詮功
采地
三河国
宝飯郡
御馬村(517.464石・六給)-100.159石
市田村(999.204石・五給)-199.8408石
伊豆国
田方郡
上船原村(180.944石)-180.944石
南江間村(939.651石・三給)-138.954石
君沢郡
木負村(181.142石・二給)-180.102石
小下田村(668.162石・二給)-457.705石
那賀郡
安良里村(206.988石・二給)-204.988石
相模国
大住郡
田村(1895.4350石・九給)-118.465石
上糟屋村(1196.337石・九給)-558.9064石
下総国
相馬郡
押戸村(739.954石・三給)-476.103石
惣新田村(457.316石・七給)-3.803石
脚注^ 名称は屋敷地がはじめ本所松井町にあったことにちなむ。
^ a b 竹内信夫 1998, pp. 648.