間瀬 正明(ませ まさあき、寛永18年(1641年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は久大夫、久太夫(きゅうだゆう)。間瀬の読みは一説に「まなせ」。変名は、三橋浄貞。 寛永18年(1641年)、赤穂浅野家臣・間瀬権大夫
生涯
元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にいた。4月18日には収城目付荒木政羽らの城検分の案内をしている。大石良雄に神文血判を提出して赤穂藩の飛び領の加東郡の本徳寺領へ移った。老齢ながら忠義の心は厚く、大石にたびたび決起を迫った。元禄15年(1702年)8月には一族の多川九左衛門が脱盟しているが、間瀬親子は残った。9月には息子の正辰が江戸へ下向し、10月には久大夫も江戸下向した。三橋浄貞と称して新麹町四丁目の中村正辰の借家に入った。なお、三橋は祖父の苗字であった。
吉良邸へ討ち入り、武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられた。細川家では腹痛で下痢をしており、「粗相をしかねないのでよろしく」と接待担当の堀内伝右衛門に言っている[1]。元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣・本庄喜助の介錯で切腹した。享年63。主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃誉道剣信士。 なお、次男の間瀬貞八正岑は幼いため討ち入りには加わらなかったが、父や兄の切腹後、一族連座して伊豆大島へ流された。大島では伊豆代官手代の小長谷勘左衛門
後史
その後、伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児(ほかに吉田兼直、中村忠三郎、村松政右衛門)は、宝永3年(1706年)8月に桂昌院の一周忌に当たり大赦令で赦免されたが、正岑だけは既に金子と糧米も尽き果て、蓆を打ち蓬を編んで鹹風蜑雨と闘ったが、衰弱して痩羸死していた[3]。 間瀬正明の甥・大助は泥酔して木村貞行に絡み、木村に斬殺されている[4]。
創作
脚注[脚注の使い方]^ 細川家文書「赤木義臣対話」(安永7年写し)
^ 『大島町史』「伊豆国大島差出帳」
^ 福本日南『元禄快挙録』二百九十九
^ 講談「義士銘々伝 木村岡右衛門」
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