間島
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この項目では、地域名について説明しています。

満洲国の省級行政区域については「間島省」をご覧ください。

間島省の間島市については「延吉市」をご覧ください。

間島
延辺朝鮮族自治州
中国語
繁体字 間島
簡体字 ??

発音記号
標準中国語
漢語?音Ji?nd?o
ウェード式Chien-tao

朝鮮語
ハングル??
漢字間島

発音記号
RR式Gando
MR式Kando

間島(かんとう)は、豆満江以北の満洲にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。墾島ともいった。
名称

当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島(??)と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになったものである。また鴨緑江以北の朝鮮民族居住地が西間島(???)と呼ばれることもあった。
間島問題詳細は「間島問題」を参照18世紀末の朝鮮全図。18世紀および19世紀の朝鮮の地図では鴨緑江豆満江を清と朝鮮の境界としている。一方で満洲および朝鮮を描いた西洋の宣教師による同時期の地図には、鴨緑江・豆満江より北に境界を置いている地図もありen:File:Kau-li_ou_Coree.jpg、韓国ではこれを間島の領有権の証拠と主張している

朝鮮王朝実録によれば、太祖李成桂の時代に北部女真族を帰順させ鴨緑江豆満江(中国名、図們江)を国界としたとされる[1]。李氏朝鮮において「野人」居住地域である満洲に関する地理的知識は乏しく、この「野人」満洲族による侵攻(丁卯の役丙子の役)後に興味が持たれるようになり、1697年の春、『盛京志』がより持ち帰られようやく理解が進んだ[2]
越境

もともと満洲族の清朝白頭山一帯を祖先の地として封禁地としていたが、徐々に朝鮮農民が入植した。1712年、国境を画定するため清と朝鮮の役人達により白頭山を南東に4kmほど下った地点に「大清烏喇総管穆克登奉旨査辺至此、審視、西為鴨酷決ラ土門(西方を鴨緑とし、東方を土門とする)、故於分水嶺上勒石為記」と国境が記された白頭山定界碑が設置された。しかし流入は収まらず、清朝が1881年琿春に招墾局を設置して可耕地を調査したところ、すでに多くの朝鮮農民が入り込んでおり住民の8割に達していた[3]。清朝は朝鮮に越境民をすべて引き上げさせるよう要求したが、越境農民の数が多く、どうすることもできなかった。このため、清朝ではこれら朝鮮人農民を領民と認め課税することにした。清朝の招墾局では朝鮮農民を募集し、食料を与えて開墾させるようになったので、さらに多くの朝鮮農民がこの地域に入った。
国境線画定交渉

朝鮮では西北経略使の魚允中が、金禹軾を調査に派遣し、白頭山定界碑の「土門」は豆満江北方の土門江(豆満江水系?呀河支流の海蘭河(海浪河)に流入)で、これこそ清朝国境であると主張した。1885年、国境線画定のため、清からは賈元桂と秦瑛、朝鮮からは李重夏と趙昌植が出席して会談し、朝鮮の土們勘界使は定界碑の文句通り土門江に国境を定めようとし、清国代表は豆満江が境界と主張、合意には至らなかった[4]1887年、再度談判が行われ、朝鮮は以前の主張を撤回し豆満江の最北端の支流、紅土水を国境線として提案したが、清は最南端の支流、石乙水の案を譲らずまたも合意には至らなかった[3][4][5]

日清戦争での清の敗北による大韓帝国の樹立後、1899年に締結された「韓清通商条約(韓清修好条規)」でも国境は明示されなかった[4]。1900年、義和団の乱が起こり清の勢力が弱まると、朝鮮は1903年間島管理使を任命して現地に派遣した。このため間島問題は清朝間の国境問題に発展した。
間島協約詳細は「日清協約」を参照松花江

満洲・朝鮮に興味を持っていたロシア日露戦争後に手を引き、1907年8月に日本は延吉県龍井村に韓国統監府臨時間島派出所を設置し、局子街・頭道溝など6か所に分遣所を置き、憲兵警察官を配属した。日清協約で清の間島領有権を認める一方で、居住権保護として間島の開放地(商埠地)に居住する朝鮮人の裁判権が日本側とされ、それ以外の地域は清の裁判権とされた。また、1907年(明治40年)の統監府臨時間島派出所の調査によって「土門」江は海蘭河ではなく第二松花江に流入する現在の五道白河であることも確かめた[3]。これに反発した清は奉天(瀋陽)から一個連隊を間島に移駐させるなど強硬な態度を見せた。1909年9月4日、日本と清の外交交渉の結果、日本は清における他の権益を譲歩させるため清の間島領有を認める「満洲及び間島に関する日清協約」(日清協約)を締結し、清と大韓帝国(韓国)との国境を画定させ間島問題はようやく解決された。1920年代前半に間島、朝鮮北部の鉄道網が整備され、朝鮮人農民の間島流入数はさらに増加した。1907年に約10万人であった間島の人口は、1931年(昭和6年)には約52万人となり、同地域の朝鮮人の人口も約7万人から約40万人へと増加した。日韓併合時代には朝鮮人が中国各地に移住したが、その約60%は間島に居住していた。こうした状況下で1931年に北部の長春万宝山事件が発生し、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との衝突があった。
間島パルチザン

第一次世界大戦後の民族自決の機運の高まりによって、朝鮮各地で独立を訴える三・一運動(独立万歳運動)が起こると、間島の朝鮮人居留地域でも朝鮮独立運動に関わる武装組織の活動が活発化し、居留朝鮮人の資金提供によって中国官憲やロシア過激派との協力を行った。日本の主権下にない間島地域は、独立軍など抗日パルチザンの根拠地となり、これらパルチザンは朝鮮北部にしばしば出没した。1920年(大正9年)にはゲリラ事件が相次いで発生し、同年1月には大韓国民会を称する武装組織により朝鮮銀行の金が略奪される事件、また同年9月以降には琿春が襲撃され、日本領事館が焼失、民間人を含む13人が殺害された事件(琿春事件)が発生したことから、日本は間島出兵を決断し、奥地へ逃れた武装組織を追って、和竜県の青山里付近で独立軍と戦闘となった(青山里戦闘)。また、1930年5月には中国共産党の支援を受けた朝鮮人独立運動勢力による武装蜂起(間島共産党暴動)が発生している[6][7][8]

一部の朝鮮系パルチザンは満洲国成立後、1933年(昭和8年)には中国共産党系の武装抗日組織である東北人民革命軍に編入され、1935年(昭和10年)には国共合作により東北抗日連軍となった。この第1路軍第6師長は金日成で、1937年(昭和12年)6月5日金日成部隊は警察官7名を殺害し鴨緑江国境の町普天堡を一夜占領した。現在の北朝鮮では間島パルチザンを朝鮮革命の起源としている。槇村浩に「間島パルチザンの歌」(1932年(昭和7年))がある。
中朝辺界条約白頭山付近の中朝国境線(Google map)

間島は、1932年(昭和7年)に成立した満洲国では延吉を首府とする間島省とした。満洲国崩壊後に満洲を手に入れた中華人民共和国は、間島は中国領とするものの1952年には延辺朝鮮族自治区(1955年に延辺朝鮮族自治州となる)を設置して朝鮮族の一定の自治を認めている。1962年朝鮮民主主義人民共和国との間で結ばれた「中朝辺界条約」(ko:?? ?? ??)によって白頭山天池上に中朝国境線が引かれ、1887年の朝鮮提案と同じ鴨緑江、豆満江を国境に定め間島は中国領とすることが両国間で確定した[4][5]


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