間島省
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満洲国 間島省
1934年 - 1945年
簡称:間




簡体字??
繁体字間島
?音Ji?nd?o
カタカナ転記ジェンダオ
国家満洲国
行政級別
政府所在地延吉県
間島市
建置1934年
廃止1945年 
面積
- 総面積km²
人口

間島省(かんとう-しょう)は満洲国にかつて存在した省。満洲国政府と朝鮮総督府により朝鮮人入植計画が実施された。現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に相当する。
歴史

1934年康徳元年)12月1日、吉林省延吉汪清琿春和龍の4県及び奉天省昌図県に間島省が新設され、省公署が延吉県延吉街(1943年に間島市となる)に設置された。満洲国時代の間島省の住民の多くは日本人及び朝鮮人という特殊な状況であった。1943年(康徳10年)に東満総省の管轄に、1945年(康徳12年)には国務院の直轄とされた。

紀行文「滄茫たる北満洲」『三千里』(1936年2月号)に以下の記載がある。「延吉市の旧名は局子街。現在の間島省の首府である。従来に、龍井は間島の朝鮮人の中心で、延吉は中国人の中心だ。満洲事変以後、京図線が開通し、間島省の首府が延吉市となった。(中略)昭和10年10月末現在の延吉の戸数と人口は以下の通り。満洲人(2478戸/1万5263人)、日本人(465戸/1460人)、朝鮮人(1848戸/9229人)(中略)。延吉市は新興都市の雰囲気に満ちている。」
下部行政区画

満洲国崩壊直前の下部行政区画

間島市1943年康徳10年)に延吉県延吉街に新設された。

延吉県

汪清県

和龍県

琿春県

安図県

沿革

1907年、
日露戦争に協力した北洋軍閥奉天派袁世凱張作霖など)が満州東三省)の総督に就任。

1909年、と日本とのあいだに間島協約が締結され、日本は吉林省延吉県間島の鉄道敷設と炭鉱の権益を得る。

1912年、辛亥革命を経て袁世凱らが中華民国を樹立。

1919年、袁世凱死去による軍閥時代のなかで張作霖が満州を統治(北東軍(中国語版))。

1926年、12月に張作霖が北京で大元帥に就任。

1927年、張作霖政権に対し、国民革命軍?介石)が3月に南京事件、4月に上海クーデターを起こし南京国民政府国民政府)を樹立。

1928年、日本政府と南京国民政府とのあいだで、山東出兵済南事件などの衝突が発生。南満州鉄道ジャライノール油兆があるという情報を得て[1]、関東軍は満州国樹立の計画を開始し、6月に張作霖爆殺事件を起こす(当時は犯人不明)。

1930年、日本政府が、5月の間島共産党暴動で追われた朝鮮人200人を間島の万宝山に入植させ、植民団と現地人の間で水利権の紛争が発生。日本の警察が対峙。

1931年、7月に万宝山事件朝鮮排華事件が発生。9月に奉天満州事変柳条湖事件)が発生し、満州国が樹立。

1934年、12月に満洲国政府が、吉林省に属していた延吉県、汪清県、和龍県、琿春県の4県に奉天省に属していた安図県を加え、間島省を創設し朝鮮人省長を任命。

1936年、5月現在の間島省公署の職員民族比率は中国35%、朝鮮33%、日本32%だった。8月17日、間島省長に金井章次が就任。

1937年、3月10日、朝鮮からの第1次間島移民の1万9900人が出発。7月、盧溝橋事件により日中戦争が開戦。12月、間島省長代理に李範益が就任(1940年5月まで)。また、永新中学が間島省立光明国民高等学校に改編される(1941年には間島省立龍井第一国民高等学校に改編)。

1938年、2月22日に朝鮮総督府外務部が、朝鮮人農民の吉林省、間島への移民入植計画の実行に着手。12月、従来の国境監視隊を母体として間島特設隊が間島省延吉県明月鎮で創設される。また、間島地区の管轄が朝鮮軍から関東軍に移る。朝鮮軍は北方特務機関の本部を琿春から延吉に後退させる。琿春には分派機関を設ける。

1939年、6月15日に東興中学と大成中学が合併し龍井国民高等学校となる(1941年には間島省立龍井第二国民高等学校に改編)。10月1日から東北三省の吉林・通化・間島で東北抗日聯軍の殲滅を目的とした東北三省治安粛正工作を展開(1941年3月まで)。司令官は関東軍の野副昌徳少将。東北抗日聯軍第一路軍の楊靖宇、第一方面軍長曹亜範らが戦死。

1941年、3月12日に野副昌徳の率いる討伐隊は解散。同年3月19日に日満軍警の合同祝賀会を開催。


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