間島出兵
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間島出兵

1920年 (大正9年)
場所中華民国吉林省間島
結果日本軍の勝利

衝突した勢力
大日本帝国陸軍北路軍政署
大韓独立軍
馬賊
指揮官
高島友武中将
東正彦少将
磯林直明少将
木村益三大佐金佐鎮
洪範図
戦力
12,0006,000[1]

間島出兵は、満州間島(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州)で日本軍朝鮮人中国人の活動家、匪賊馬賊に対して実施した鎮圧・掃蕩作戦である。韓国では間島出兵前に発生した鳳梧洞戦闘(??? ??)と、間島出兵中に発生した青山里戦闘(??? ??)を三・一運動における二大勝利としているが、戦闘結果については日韓で見解が異なる(後述)。目次

1 背景

2 経過

2.1 東支隊

2.2 磯林支隊

2.3 木村支隊

2.4 航空隊


3 結果

3.1 間島惨変


4 参加兵力

5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 関連項目

7 外部リンク

背景

1910年(明治43年)の韓国併合後、これに不満を持つ一部の朝鮮人は、日本の支配を逃れて近隣の中国(中華民国)及びロシア領内に亡命し、抗日宣伝や反日教育を行っていた。1919年(大正7年)、第一次世界大戦後の民族自決の機運の高まりによって、朝鮮各地で独立を訴える三・一運動(独立万歳運動)が起こると、これに呼応して、満州間島と呼ばれる朝鮮人居留地域において、独立軍と総称される朝鮮独立運動に関わる武装組織の活動が活発化した。これらの武装組織は、居留朝鮮人から金品や食料を調達したり、中国官憲やロシア過激派との協調を通じてその武力を蓄えていた。日本側は武装組織に関わる朝鮮人を「不逞鮮人」と呼び、中国側に討伐を要請したが、ほとんど成果が現れなかった。

1920年(大正9年)に入ると、ゲリラ事件が相次いで起こった。同年1月4日には「大韓国民会」を称する武装組織により、朝鮮銀行会寧支店から竜井出張所へ輸送中の朝鮮銀行券15万円が掠奪され、同年3月15日には朝鮮人3人により平安北道宣川郡泰山面面長及び面書記が銃殺され、同年5月には琿春「韓民会」の金雲瑞[注釈 1]率いる十数人により慶源西方で郵便配達員が襲われ憲兵が殺害された。

同年6月4日には、午前5時に穏城郡南陽対岸の三屯里から朝鮮人武装組織50人が豆満江を渡河して日本の警察憲兵及び守備隊と銃撃戦となり、武装組織は三屯里の民家に退却した。その際、日本側の損害はなく、武装組織は1人戦死、2人負傷し、2人捕虜、小銃2挺、小銃弾245発を押収した[2]。事件の背後に有力な一団があるとみた日本陸軍の第19師団は、安川少佐率いる歩兵2個中隊による追撃隊を派遣、同年6月7日に汪清県鳳梧洞で家屋内から射撃する独立軍と4時間にわたり衝突し、日本軍の戦死者は1人、武装組織は遺棄死体33人以上を残し、捕虜8人を捕らえた。また、屋内にいた朝鮮人女性4人、子供1人が負傷した(鳳梧洞の戦い)[3][注釈 2]。この戦いを見るや上海大韓民国臨時政府は、「我が軍の大勝利」として図們江軽便鉄道占領説など誇大な宣伝発表を行っており[注釈 3]、21世紀においても韓国政府はこの戦いを重要視している[注釈 4]

逆に同年8月には、朝鮮総督府の嘱託により長江好率いる1,500人の馬賊柳河県三源浦の独立軍根拠地を襲撃し、その首魁20人余りを捕えて銃殺している[4]。同年9月には、日本の要求により張作霖が孟富徳に独立軍討伐を開始させ、その退去命令により金佐鎮率いる北路軍政署の一団は安図県方面へ移動を余儀なくされた。

そうした中、同年9月12日、10月2日の二度にわたり琿春が馬賊等に襲撃され、日本領事館が焼失し、女性や子供を含む13人が殺害される事件が発生した(琿春事件)。同年10月7日、この襲撃を「不逞鮮人」によるとした原内閣は、居留民保護を名目に間島出兵を閣議決定し、中国側との折衝を開始した。同年10月16日には吉林都督奉天で結ばれた「日支協同討伐に関する協定」により、東支鉄道以南20里を除く東寧県琿春県延吉県汪清県和竜県の5県を日本軍が、それ以外の地域を中国軍が担当して、武装組織の掃討に当たることとなった。
経過

間島出兵には、日本陸軍の朝鮮軍から第19師団シベリア出兵より帰還途上の第14師団歩兵第28旅団、浦潮派遣軍からは第11師団第13師団のそれぞれ一支隊が参加した。このうち実際に作戦を行ったのは第19師団のみで、他の部隊は封鎖と示威を行ったにすぎない。

第19師団長の高島友武中将は、その作戦計画を二期に分け、第一期は武装集団の根拠地を掃討し夜間は自陣に戻ることとしし、第二期は同年11月20日から、洪範図及び金佐鎮の一団は既にロシア領及び安図県方面に逃れたため、部隊を分散配置させ残党の掃討、武器の押収、親日的な地域宣伝などに努めた。朝鮮軍司令部編『間島出兵史』による経過は以下。
東支隊

東正彦少将が率いる東支隊は、延吉県和竜県方面を担当した。高島師団長は同年10月13日の訓令で、東少将に対し、武装組織を敦化県及び安図県方面(協定の管轄外)に脱出させることのないよう特に注意を要すると示唆した。東少将は同月15日に竜井村に到着し東支隊を編成、同月17日に機関銃を有する500?600人の武装組織が頭道溝の西南約10里の青山里付近の谷に留まるとの情報を得て、以下の部隊を編成し、行動を指示した。

山田隊(主力:歩兵第73連隊)は速やかに賊の西方に進出し退路を断ち主力をもって討伐する。

騎兵連隊は後車廠溝、前車廠溝、昇平嶺から迂回し老嶺方面の退路の遮断に努める。

歩兵第74連隊の2中隊等は頭道溝にて待機(支隊予備隊)。

主力たる山田隊は二縦隊を組んで青山里に向けて進軍、同月18日に右縦隊の中村大隊は頭道溝から、山田隊は竜井村からそれぞれ出発し、右縦隊は蜂蜜溝を経て青山里へ進軍、同月19日に蜂蜜溝の西南約3000メートルの谷で40人の中国人馬賊と衝突し、2人を負傷させてこれを撃退した。山田隊は頭遣溝南方の八家子を経て、同月20日に三道溝に到着した。

山田隊は武装組織が同月20日未明に奥地へ逃れたことを知り、これを捜索しつつ同地へ宿営した。同月21日には右縦隊が合流、山田隊は密林を捜索して付近の部落を掃討し、安川少佐の指揮する選抜歩兵1中隊が追撃隊として老嶺方面に向かうと、宿営地から1里のところに600人ほどの武装組織の宿営地跡を発見した。追撃隊は警戒しつつ600?700メートル程進んだところで武装組織の銃撃を受け、直ちに応戦して30分程の戦闘を行ったところで武装組織は逐次退却をはじめ、山田隊の主力も加えて老嶺方面に追撃したが、武装集団は密林に火を放ち、その隙に老嶺の東南の谷や密林に一部を残し安図県方面に退却してしまったため、ひとまず再編成のために主力の位置に撤退した。この戦いにより、日本軍の戦死者は兵卒4人、負傷者は下士官1人、兵卒2人、武装組織の遺棄死体は16人であった。(青山里の戦い

騎兵連隊は、昇平嶺方面に湿地が多く行動が難しいのを見て、漁朗村に宿営した。翌22日午前5時30分、金佐鎮配下の士官生徒隊を基幹とする約300人の武装組織が来襲して交戦となり、支隊予備隊も急行したものの、武装組織は874高地を占領した地の利を得て頑強な抵抗を示し、その抵抗は5時間にも及んだ。午後0時30分、道に迷っていた飯野大隊も戦線に加わり遂にこれを撃退した。この戦闘により、日本軍の戦死は下士官1人、兵卒2人、負傷者兵卒12人であり、武装組織側の死傷者の詳細は不明だが60人に達するとみられ、捕虜5人、小銃22挺、弾薬2200及び機関銃1挺を捕獲した。武装組織は南西方面の密林に四散し、支隊予備隊はその撤退方面の捜索を行ったが明らかにはならなかった。(漁朗村の戦い)


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