閑院宮載仁親王
閑院宮
御真影(1936年撮影)
続柄
伏見宮邦家親王第16王子
崇光天皇男系15世孫
霊元天皇女系6世孫
全名載仁(ことひと)
身位親王
敬称殿下
出生1865年11月10日
(慶応元年9月22日)
山城国京都
江戸幕府政権下(幕末期)
死去 (1945-05-20) 1945年5月20日(79歳没)
日本・神奈川県小田原市
埋葬 日本・東京都文京区、豊島岡墓地
配偶者載仁親王妃智恵子(三条智恵子)
子女篤仁王
安藤恭子(恭子女王)
黒田茂子(茂子女王)
季子女王
春仁王
寛子女王
戸田華子(華子女王)
父親伏見宮邦家親王
母親伊丹吉子
栄典 大勲位菊花章頸飾
功一級金鵄勲章
功二級金鵄勲章
功四級金鵄勲章
大正三年乃至九年戦役従軍記章
大正三四年従軍記章
明治三十七八年従軍記章
役職 元帥陸軍大将
貴族院議員
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閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1945年〈昭和20年〉5月20日)は、日本の皇族、陸軍軍人、日本赤十字社総裁、東京地学協会総裁(1895年 - 1945年)[1]、日露協会総裁(1911年 - )[2]。伏見宮邦家親王第16王子。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。世襲親王家の閑院宮第6代当主。
1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。
貴族院の創設に伴って皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めた。これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録である。 3歳で出家し、真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続する。1871年(明治4年)伏見宮に復籍のうえ、翌年前当主閑院宮第5代愛仁親王の没後、孝仁親王妃・鷹司吉子
経歴
1877年(明治10年)、京都から東京に移り陸軍幼年学校に入学。1878年(明治11年)8月26日に親王宣下され、幼名「易宮」を改めて載仁親王と称した。幼年学校の同期には明石元二郎、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)、幼年学校を卒業するやフランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランス陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て1891年(明治24年)に帰国。