閑谷学校
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この項目では、閑谷学校について説明しています。閑谷学校に関する資料を展示している資料館については「閑谷学校資料館」を、岡山県立高等学校については「岡山県立和気閑谷高等学校」をご覧ください。

閑谷学校
閑谷学校講堂
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情報
用途歴史資料
旧用途藩校・学校・県教育施設
着工1670年
開館開所1673年
所在地岡山県備前市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度47分47.0秒 東経134度13分10.2秒 / 北緯34.796389度 東経134.219500度 / 34.796389; 134.219500座標: 北緯34度47分47.0秒 東経134度13分10.2秒 / 北緯34.796389度 東経134.219500度 / 34.796389; 134.219500
文化財国宝(講堂)、重要文化財(聖廟・神社等)
指定・登録等日1938年重要文化財(旧国宝)指定、1953年国宝指定、1954年特別史跡指定
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閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。
概要

岡山藩主池田光政によって開設された日本最古[1]の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ[2]。また大鳥圭介の他にも、多くの哲学・科学関係の訳語を考案したことで知られる西周も少年時代にここで学んだという[注釈 1][3]

岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田[注釈 2]や学林を運営させた。これにより、もし転封改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が窺える。

建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。また、旧閑谷学校は、周辺の津田永忠宅跡及び黄葉亭などを含め、国の特別史跡に指定されている。2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋の紅葉名所でもある[2]

講堂の床には漆が塗ってあり、手の脂で漆が禿げてしまうため、 手で触ってはいけないと言われている。
歴史
池田光政の設置命令

1666年10月、池田光政津田永忠の案内で閑谷を訪問し[4]、この地に学校を設置することを決め家臣の藤岡内助を普請奉行に命じた[4]。1669年、池田光政は岡山城下の西中山下に岡山藩学校を設置した[4]。続いて1670年(寛文10年)、池田光政は津田永忠に閑谷学校の建設を命じた。津田は閑谷に転居し建設が始まる[4]。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが[4]、当時は茅葺きの質素な建物であった[4]。1675年には、光政は領内に123か所設置していた手習所を閑谷学校に統合した[4]
池田光政の没後

1682年(天和2年)、池田光政が亡くなった。光政は遺言で学校を永続保つように津田に伝えていた。津田永忠は、聖堂と講堂の改築、芳烈祠の建立、石塀と門の設置などの再整備を行い、この作業は1702年まで続いた。建物の屋根はこのときに耐久性の高い備前焼瓦で葺かれた(後述)[4]。椿山(御納所)もこのときに築かれた[4]。芳烈祠は現在の閑谷神社で、池田光政を祀ったものである[4]。椿山墓所には光政の爪と髪の毛が埋められたとされる[4]1700年(元禄13年)、当時の岡山藩主池田綱政が学校周辺の田畑を学校田とする[5]。これによって田畑を奪われた農民は、岡山市の「幸島新田」に入植した[5]1704年には光政像が建立された。その後閑谷学校は一時衰退の時期を迎える。
池田治政の時代以後

一時衰退していた閑谷学校は、5代目藩主の池田治政の時代に再び活気を取り戻す[4]。1847年(弘化4年)、学房より出火して、共感宿舎や客宿舎などが消失した[4]。幕末の混乱期においても、多くの子供が学問にはげんでいた[4]
閑谷精舎時代

1870年(明治3年)の藩政改革によって同年9月閉鎖される[4]。学房と習字所、教官宿舎は明治維新後に撤去された[4]。講堂などの主要施設についても、一時撤去の動きがあったが[4]、1872年(明治5年)夏頃より岡山の中川横太郎・谷川達海らが中心となって再興に向けた運動が行われた[4]池田慶政が資金を提供し、備中の漢学者山田方谷を招いて1873年2月に、『閑谷精舎』として改称され再び学問の場となった[4]。山田方谷は刑部(現在の大佐町)にも塾を開いていたために[4]、閑谷精舎には年2回ほど訪れ、一度の訪問で2-3カ月滞在したとされる[4]。山田方谷の他にも方谷の高弟である鎌田玄渓や興譲館坂田警軒が招聘された[4]。しかし、講義が漢学に偏っていた為に次第に生徒数が減少[4]。1877年(明治10年)に休校に至り、閑谷精舎時代は僅か4年で終わった[4]
閑谷黌時代

閑谷精舎が休校となって4年経過した1881年(明治14年)、元岡山県参事の西毅一は、中川横太郎や岡本嶺らとともに『閑谷保黌会』(ほこうかい)を組織し、財界や有識者より資金を募り、閑谷学校再興の活動を行った[4]。備前8郡の主長も協力し、1884年(明治17年)8月に改称『閑谷黌』(しずたにこう)として開学式を執り行った[4]。西毅一は岡山から閑谷に引っ越し、黌長に就任した[4]


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