開陽丸
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開陽丸
開陽丸(1866年ごろ)
基本情報
建造所ヒップス・エン・ゾーネン造船所(オランダドルトレヒト)[1]
運用者江戸幕府
艦種木造シップ型フリゲート[1]
艦歴
発注文久2年(1862年[2]
起工文久3年8月4日(1863年9月16日)[3]
進水慶応元年9月14日(1865年11月2日)[3]
竣工1866年9月10日(慶応2年8月2日)[2]
就役@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}慶応2年7月17日(1866年8月26日)[要出典]
最期明治元年11月15日(1868年12月28日)座礁、のち沈没[2]
要目([1]
満載排水量2,590t
長さ上甲板長:72.08m
垂線間長68.60m
最大幅13.04m
深さ7.20m(キール上面から砲甲板まで)
吃水平均:6.05m
(前部:5.70m、後部:6.40m)
ボイラー 2基
主機2気筒横置トランクピストン型蒸気機関 1基
推進タンデム型昇降式1基 x 58rpm
翼数2、直径4.826m
出力計画:400NHP(公称馬力)
試運転時:1,200IHP(図示馬力)[注釈 1]
帆装3檣シップ型
面積:2,097.8m2
最大速力約10ノット(汽走時)
燃料石炭:400t[5]
航続距離全力で8日[6]
乗員計画乗員:350名
慶応4年定員:429名[注釈 2]
定員は303名(士官7名、見習士官31名、水夫265名)[要出典]
兵装竣工時:34門
16cm鋳鋼施条前装砲(クルップ砲) 18門
30ポンド鋳鉄滑腔前装砲 8門
30ポンド鋳鉄カロナーデ 1門
12cm青銅ホウイツアー 2門
7cm青銅施条前装砲 1門
5cm青銅施条前装砲 2門
12cm青銅臼砲 2門
または備砲26門、のちに35門
16cmクルップ砲18門
16cmライク滑腔砲6門
9inダールグレン砲9門(追加) ほか[要出典]
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開陽丸(かいようまる)は、幕末期に幕府海軍に所属していたオランダ製軍艦。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型フリゲート[1]

江戸幕府大老井伊直弼の意思を継いだ老中安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦で、オランダで造艦され、1867年慶応3年)3月25日に横浜へ入港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが[7]、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年明治元年)11月15日、蝦夷地江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。

1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した[8]。大砲やシャフト等の遺構から古文書まで3万点以上の遺留品の引揚げが行われている。1990年(平成2年)4月、江差町に史料館として開陽丸が復元された。現在は開陽丸記念館がある[9])。
背景ペリー来航(1853年)

黒船来航として知られる、1853年嘉永6年)6月の浦賀沖へのマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国艦隊出現は、日本に欧米諸国との文明の差を痛感させるには充分な威力を発揮した[7]。この一件をきっかけとして、幕府は国の海防力の強化の必要性を悟り、海軍創設および強力な軍艦の保持を目指すこととなる。1855年安政2年)、中古軍艦の買入れを始めると同時に、その軍艦を操船するための兵士の育成を開始するため、オランダへ協力を要請した[10]長崎出島(鎖国下でもオランダとの通商窓口となっていた)に海軍伝習所を設ける運びとなり、当時のオランダ国王ウィレム3世は、蒸気軍艦スピング号[注釈 3]を幕府へ贈呈し、ペルス・ライケン中佐らを海軍教官として長崎へ派遣した。この伝習所の第一期生としては勝麟太郎矢田堀景蔵など150人。1856年(安政3年)には後に開陽丸に深く関わることになる榎本武揚ら2期生が入所した。

しかし、幕府の開港政策に反対する攘夷派の動きや、天保の改革の失敗、貧困・飢饉に苦しむ庶民の一揆、さらには各国と通商条約を結び、海防力の強化を推し進めていた大老・井伊直弼が桜田門外の変で斃れるなど、国内の情勢も非常に不安定であった。

国内外の対応に追われつつも、1862年文久2年)までには諸外国から買い入れた中古の軍艦を取り揃え、なんとか海軍としての体を成すようになっていた[11]。しかし、外国の不用艦のみでは外国の強力な艦隊にかなう筈も無く、国を守るための、より強力な主力艦が求められるようになった[11]
艦歴
発注ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト進水式開陽丸の写真

江戸幕府は、外国船に劣らない新鋭艦の必要性を感じてアメリカ駐日公使であったタウンゼント・ハリスに打診する。しかし、ハリスは自国の南北戦争を理由として軍艦の新造を拒否した[12]。このため、オランダへ軍艦の発注および、それに伴う留学生の派遣を依頼することとなった。1862年(文久2年)、久世広周は「オランダ海軍の持つ最新の設計・設備を施した、蒸気機関推進で大砲を20門以上装備した3000トン未満の軍艦一隻」という条件で注文書を出した[12]。同時に、軍艦引き受けをかねて派遣する日本人留学生ら15名を選抜した。そして1863年(文久3年)3月にはロッテルダムの蒸気船会社にて設計が完成し、ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所(Cornelis Gips & Zonen)に建造が指示された。オランダ側は当初、時流からみて鉄製艦を薦めた[13]が、一刻も早い入手を望んだ幕府側は木造を選択する。こうして開陽丸は木造銅貼で造船されることとなり、1866年6月進水を目指し、作業が開始された。

一方、選ばれた留学生達は、1862年(文久2年)9月11日長崎を出港、1863年(文久3年)4月16日にオランダのブローウエルスハーヘン港(Brouwershaven)に到着した[14]。当地での留学生たちの世話は長崎海軍伝習所で教官を務めていたカッテンディーケ海軍大佐メーデルフォールト軍医が見ることとなった。


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