開港場
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条約港(じょうやくこう)は、不平等条約によって開港を規定された港湾。開港場ともいう。
目次

1 概要

2 中国(清)

3 日本

4 朝鮮

5 参考文献

6 関連項目

7 脚注

8 外部リンク

概要

1842年南京条約で五港を開港したをはじめ、日本朝鮮などでも条約港が設定された。

条約港では治外法権をもつ租界外国人居留地が設定され、欧米列強の半植民地的支配の拠点となったが、その反面、条約港を中心として近代文明が導入された一面もある。

中国の条約港はその後の北京議定書天津条約下関条約などによりさらに拡大した。
中国(清)

江蘇省 上海南京鎮江蘇州

安徽省 蕪湖

江西省 九江

湖北省 漢口宜昌沙市

湖南省 長沙

四川省 重慶

浙江省 寧波温州杭州

福建省 福州廈門

台湾省 淡水台南

広東省 広州汕頭海口北海

広西省 南寧

山東省 煙台青島済南周村?県

河北省 天津

遼寧省 牛荘(後、営口)、大連瀋陽安東

吉林省 長春琿春ハルビン

黒竜江省 アイグン満洲里

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画像外部リンク
アメリカ式捕鯨によるマッコウクジラの捕獲位置と2種の「ジャパングラウンド」の範囲

1810年代末より、現在の北海道蝦夷地)・小笠原諸島ハワイ諸島を結んだ「ジャパン・グラウンド」(右の「画像外部リンク」参照)と呼ばれるマッコウクジラの良漁場に、鯨油獲得を目的に米国などの捕鯨船団が集まり始めた。また、1840年から始まるアヘン戦争の結果、イギリスとの間で南京条約1842年)が結ばれた。すると、米国も1844年望厦条約と呼ばれる修好通商条約を結び、清との貿易が活発化した。米国内では、1846年オレゴン条約によって英米共同占有だったオレゴン・カントリーに国境が引かれ、1848年には米墨戦争によって得たメキシコ割譲地にてカリフォルニア・ゴールドラッシュが始まるなど、太平洋に面した米国西海岸は活気付くことになる。

19世紀初頭の欧米の捕鯨船団の例(1831年)

船に横付けした鯨から皮下脂肪等を獲る様子(1874年)

船上での鯨油の精製(1874年)

米国の鯨油マッコウクジラ油)の輸入量の変遷(1805年 - 1905年)

画像外部リンク
アモイ(図中:XMN)とサンフランシスコ(図中:SFO)との間の大圏コース
(図中のPTYは1914年開通のパナマ運河の太平洋側出入口にあるパナマ市

一方、鎖国をしていた日本では、江戸幕府1842年天保13年)に薪水給与令を出し、外国船への補給を開国を伴わずに実施していたが、米国は1853年、北西太平洋での商船と捕鯨船の補給と安全のため日本に寄港地上陸を求め、開国を迫ることになった(黒船来航参照)。1848年の米国下院海軍委員会におけるキング委員の報告で「北太平洋横断航路」は、清の東海岸の東シナ海から、対馬海峡を経て日本海に入り、津軽海峡を通過して太平洋に出るか、あるいは、日本海を経ずに琉球諸島付近から太平洋に出て本州南方沖を通るかして、大圏コースアリューシャン列島付近を通過)で米国西海岸に至る航路が想定されていた[1](清の廈門(アモイ)と米国のサンフランシスコとの間の大圏コースは右上の「画像外部リンク」を参照)。気象情報が不十分だった当時、台風を避けられる日本海経由は有効であり[1]、対馬海峡に近い長崎や津軽海峡に面した箱館(函館)対馬暖流津軽暖流)沿いという利点も加わって寄港に適した港であった。また、日本海が時化る冬季には、黒潮乗って南西諸島の間から太平洋に出れば黒潮沿いの下田も同様であった。さらに箱館と下田は「ジャパン・グラウンド」に近いため、捕鯨船の寄港にも都合が良かった。

日本列島近海の海流
1:黒潮、2:黒潮続流、3:黒潮再循環流、4:対馬暖流 5:津軽暖流 6:宗谷暖流 7:親潮 8:リマン寒流

海流の北太平洋旋廻アメリカ陸軍、1943年)。円筒図法(おそらくミラー図法)の地図上に描かれていることに留意が必要。

和親条約上の寄港地(○:開港、×:結局開港せず)調印日条約名寄港地
長崎下田箱館
1854年03月31日日米和親条約○○


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