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「開星中学校・高等学校」とは異なります。
開成中学校・高等学校(かいせいちゅうがっこう・こうとうがっこう、英: Kaisei Junior & Senior High School)は、東京都荒川区西日暮里にある、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。
高等学校では、中学校から入学した内部進学生と高等学校から入学した外部進学生を、第2学年から混合したクラス編成とする併設混合型中高一貫校[1]。 1学年の生徒数は中学300名、高校400名である。校風は質実剛健。校章の由来は「ペンは剣よりも強し」。 1871年、加賀藩の洋学・砲術・海洋学の講師から小石川造兵司頭になった[2]佐野鼎によって神田淡路町の相生橋に共立学校として創立された[3][4]。跡地となっている淡路公園には「発祥の地」の石碑が置かれている[5]。 2代目校主には佐野の娘婿の伊藤祐之(札幌製糖社長)が就いた。この時代の卒業生に高田早苗らがいる[6]。佐野の死後には廃校寸前となったが、1878年に大学予備門の教師をしていた高橋是清が初代校長に就任し、大学予備門への進学者のための寄宿制の進学予備校として改革[6]、英学科と和漢学科の二科の三年制(予科1年、本科3年)と定めた[7][8]。高橋が校長に就任した翌年の1879年には、共立学校からの大学予備門入学者が定員466名のところ、実に112名に達した。以降も、東京英語学校(現:日本学園中・高)や成立学舎などとともに、第一高等中学校(のちの一高)への合格者数上位校として知られていた[9][10]。 1891年の中学校令の一部改正公布に則り、尋常中学共立学校と改称し尋常中学校への転換を図ったが、学校組織は以前のままであった。 1891年の中学校令の一部改正により(官公立の)尋常中学の設立要件が緩和されたことは、市井の私立校の第一高等中学校(のちの一高)など官立高等諸学校への進学が断ち切られたことをも意味し、私立校は軒並み生徒が集まらなくなった[11]。 当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する徴兵猶予や校地に対する免税、卒業生の判任官任用などの特権を得る便法としての有利な条件も働き、まず共立中学(現:都立戸山高校)が、次いで共立学校の2校が東京府の管轄下に入り、1895年に、それぞれ東京府城北尋常中学校、東京府開成尋常中学校と名を改めた。このとき、校名が「共立学校」から「開成」となったのは、東京府当局が「共立」と「府立」は相容れないとして難色を示したためだとされている[12][9]。さらに中学校令改正により1899年に東京府開成中学校と改称。「開成」という名称は、易・繋辞伝(けいじでん)にある「夫易開物成務」という言葉が由来である。 まもなく各種特権が私学にも与えられるようになったこともあって、1901年に府の管轄から私立へ復して私立東京開成中学校となり、1919年に東京開成中学校と改称。1903年には開成夜学校を併設。 1945年には大東亜戦争(太平洋戦争)戦局悪化のため、無試験入学となる。翌1946年には入学試験が再開されるが、筆記試験が復活するのは1953年のことであった。戦後、学制改革により、1947年に新制中学校(開成中学校)が、1948年には新制高等学校(開成高等学校)が発足し、旧制5年制中学から新制6年制中高一貫の開成中学校・高等学校へ移行し現在に至る。 また、現在の道灌山の校地に移転したのは、関東大震災により淡路町校舎が焼失した後の1924年である[13]。1920年に初めて行われた東京高師附属中学校(現:筑波大附属高校)とのボートレースは現在も行われている。 [14]
概要
沿革
共立学校
開成
年表
1871年 -「共立学校」創立。
1885年 -「ペン剣」の記章を定める。
1895年 - 校名を開成と改める。
1924年 - 学園は神田淡路町から西日暮里(現在地)に移る。
1947年 - 開成中学校が発足。
1948年 - 開成高等学校が発足。旧制5年制中学から新制6年制中高一貫の開成中学校・高等学校へ移行。校長に曾禰武(前:立教大学教授)が就任[15]。
1970年 - 曾禰武が校長を退任[15]。
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