開南丸(かいなんまる)は、白瀬矗の南極探検に使用された船。命名は、東郷平八郎による。船主旗の図案は三宅雪嶺の考案[1]。 元は郡司成忠の第二報效義会の漁獲物運搬船「第二報效丸(だいにほうこうまる[5])」である[6]。「第二報效丸」は1910年3月に大湊の市川造船所で竣工した木製、199トンで3本マストの帆船であった[4]。白瀬は郡司に頼み込んでこの船を譲り受け、後援会が船代などとして2万5000円を支払った[4]。それから石川島造船所で補強工事が行われ、蒸気機関も搭載された[4]。1910年(明治43年)11月21日、船は東郷平八郎元帥により「開南丸」と命名された[5]。 11月29日 - 芝浦を出港し、南極へ向かう[5]。
要目
総トン数:204トン[2]
長さ:100フィート(33.48m)[3]
船幅(肋骨外側):25.9フィート(7.85m)[4]
深さ:12.9フィート(3.89m)[2]
機関出力:18馬力(125ccクラスのバイクのエンジンと同等)[4]
船歴
1912年(明治45年)
1月16日 - 1年以上の航海の末、南極ロス海クジラ湾に到着[5]。白瀬隊長率いる探検隊は1月20日に南極点に向け出発し、28日午後0時20分に、南緯80度05分、西経156度37分に到達した[5]。
6月20日 - 全員無事に芝浦港に帰港した[7]。
1913年(大正2年)
10月9日 - 東京へ向けての航海中、三重県の菅島灯台の3マイル沖で暗礁に乗り上げて沈没。乗組員は救助された[8]。
航路
南極圈航海概要
関連項目
大隈重信 - 南極探検隊後援会長。開南丸が一時消息不明になったとき川面凡児に相談したとする説がある[9]。
大和雪原 南緯80度05分、西経156度37分
宗谷 - 初代南極観測船。開南丸の南極探検から45年後の1957年1月29日に東オングル島に到達し、日本の南極観測事業の礎を築いた。
開南中学校 - 戦前の沖縄県にあった私立の旧制中学校。校名は開南丸にちなんだが、沖縄戦に巻き込まれて廃校となった。
開南湾 - 南極の白瀬海岸にある湾。開南丸がロス棚氷に着陸したことに因み名付けられた。
脚注[脚注の使い方]^ 白瀬矗書翰 : 大隈重信宛
^ a b 小島敏男『南極観測船物語』37ページ
^ 小島敏男『南極観測船物語』36ページ。「水線間」とあるが、誤植で正しくは垂線間か?
^ a b c d e 小島敏男『南極観測船物語』36ページ