門松(かどまつ)は、正月に日本の家の門前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語[1]。古くは、木の梢に神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う[2]。年神はこの松門を目印に降臨してくると言われる[3]。 松は冬でも青々とした常緑高木で、新しい生命力の象徴となっている[4]。神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。 一説には唐代にみられた、正月に松の枝を門に飾る風習が平安時代に日本に伝わったという(ただし中国で正月に松を飾る地域は限られている)[4]。 平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われた。これは、初子の日
歴史
長治年間(1104年 - 1105年)に撰された『堀河百首』には藤原顕季が門松を詠んだ歌が収められており(「#門松に関する作品」参照)、この頃には平安京(現在の京都市)で門松を飾る風習があったことが分かる。14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記され、16世紀中頃の上杉本『洛中洛外図』にも門松が描かれている[6]。
日中戦争が激化した1938年(昭和13年)末には、大阪府の一部の町会が門松廃止運動を行った。運動を回避するものとして門松を印刷した紙ビラなども流通した[7]。
なお、中国では正月に松を飾る地域は限られており、一般的には邪気払いの力があるとされる桃の木の人形や札を飾る風習がみられた[4]。日本に桃が伝来したとき既に日本では松を正月飾りにする風習が出来上がっていたため桃が入り込む余地がなかったといわれている[4]。
飾り付け
様式民家の設置例竹のない飾りつけ(大正時代)竹を二階屋根まで届くほど高くした門松(大正時代)
現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった[2]。
竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴(ずんどう)」の2種類がある。一説では、「そぎ」は徳川家康が始めたもので、徳川家康が三方ヶ原の戦い(1572年12月)で武田信玄に敗れた直後、武田方から送られた「松枯れて 竹類いなき 明日かな」(松平氏の出自である徳川家康が滅び、武田氏が栄える)という句を、「まつかれで たけだくびなき あしたかな」(松平氏は滅びず、武田の首級が落ちる)と読み替えて、竹を斜めに切り落とした門松とともに送りつけたと伝承されている[8]。武田氏の本国があった山梨県では現代において、竹を寸胴にしたものを「武田流門松」と称して山梨県庁舎などに飾っている[9]。
江戸時代の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた[注 1]。仙台藩の武家では、松の枝を括り付けた高さ3m程のクリやクヌギの木を門の両脇に立て、その間に竹を渡し、しめ縄と藁の飾りをかける「ケンダイ」を組み合わせる門のような構造である[10][注 2]。仙台城に飾り付けられた門松は高さ4メートルに達し、材料は根白石村(現在は仙台市泉区の一部)に住む8人の「お門松上げ人」が納めることとされていた[12]。豪勢であるためお門松上げ人から税免除の嘆願が出たり、幕末には藩が門松禁止令を出したりするほどであった[12]。第二次世界大戦中の自粛や戦後の環境保護意識の高まりで仙台門松は一時廃れたが、仙台市博物館の職員が2010年代に研究・再現した[12]。
門松の様式には、地方により差がある。関東では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。関西では3本組の竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。
様々な門松