門司市
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もじし
門司市
旧門司市役所(現・門司区役所


門司市章
1921年4月5日制定

廃止日1963年2月10日
廃止理由新設合併
門司市、八幡市戸畑市小倉市若松市北九州市
現在の自治体北九州市
廃止時点のデータ
日本
地方九州地方
都道府県福岡県
面積65.93km2.
総人口156,195人
(推計人口[1]、1963年10月1日現在)
隣接自治体小倉市山口県下関市
門司市役所
所在地福岡県門司市廣石町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度56分29秒 東経130度57分34秒 / 北緯33.94125度 東経130.95956度 / 33.94125; 130.95956座標: 北緯33度56分29秒 東経130度57分34秒 / 北緯33.94125度 東経130.95956度 / 33.94125; 130.95956
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門司市(もじし)は、福岡県北東部にかつてあった市。市域は企救半島の大半の地域を占めている。北九州の玄関口として門司港を中心に産業が発展していた。1963年(昭和38年)2月10日八幡市戸畑市小倉市若松市と合併して北九州市となり消滅した。

北九州市が1963年(昭和38年)4月1日政令指定都市に昇格した際、旧門司市域は行政区の一つである門司区となった。
歴史詳細は「門司の歴史」を参照
文字ヶ関村の成立

門司区の地図(町村制施行時(明治22年)の村名と明治元年当時の町村名)周防灘関門海峡企救郡文字ヶ関村田野浦門司楠原小森江柳ヶ浦村東郷村松ヶ江村

豊前国であった門司市の前身である.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}文字ヶ関(もじがせき)村は、1889年(明治22年)、町村制施行に伴って、楠原郷の田野浦(たのうら)村(むら)(明治20年、田野浦町を合併)、門司(もじ)村(明治20年、楠原(くすばる)村を合併)、柳郷の小森江(こもりえ)村の3村が合併して成立した。当時の戸数は570戸、人口は3060人であった[2]。役場は、中央の旧門司村に設けられた[3]企救郡、旧小倉藩領に属し、廃藩置県後は日田県小倉県を経て1876年(明治9年)以降は福岡県に属していた。

なお、合併後の村名については、当初、門司村としようとしていたが、田野浦村から異議があり、文字ヶ関村となった[4]

合併前の村名明治22年当時の人口[5]現在の地域
田野浦村1,115門司区田野浦1-3丁目、鳴竹1-2丁目、大久保2-3丁目、清見3-4丁目、新開、田野浦海岸、太刀浦海岸、田野浦[6]
門司村旧門司村1,687門司区本町、栄町、錦町、老松町、東本町1-2丁目、浜町、港町、東港町、旧門司1-2丁目、門司[7]
旧楠原村門司区庄司町、東門司1-2丁目、清見1-4丁目、畑田町、大久保1-3丁目、法師庵、花月園、上本町、谷町1-2丁目、長谷1-2丁目、丸山1-4丁目、丸山吉野町、丸山町、清滝1-4丁目、元清滝、広石1-2丁目、西海岸1-3丁目、葛葉1-2丁目、風師1-3丁目[8]
小森江村258門司区小森江1-3丁目、南本町、大里元町、矢筈町、羽山1-2丁目、片上町、片上海岸、二タ松町、風師2-4丁目、葛葉1-3丁目、北川町、小森江、西海岸3丁目[9]

文字ヶ関村の成立とともに、大里地区には柳ヶ浦村、企救半島の周防灘側には東郷村松ヶ江村が成立した。1889年(明治22年)頃の文字ヶ関村。塩田が広がる寒村であったが、築港作業が始まり、鉄道レールが敷設中である[10]1890年(明治23年)当時の門司地図[11]

当時の文字ヶ関村は、塩田が広がる漁村であった[12]。しかし、1888年(明治21年)に九州鉄道が設立されて1891年(明治24年)に門司駅(現門司港駅)が開業し、九州鉄道の本社も博多から門司に移転した[13]。また、1889年(明治22年)には、門司築港会社による門司港の埋立てと船溜りの建設が始まるとともに、国の特別輸出港に指定され、石炭硫黄小麦粉の5品目の取扱いを許された[14]。これにより、門司港は、筑豊から鉄道で運ばれた石炭を輸出する港として急速に発展した[15]
門司町への改称

文字ヶ関村の人口は、1889年(明治22年)には3130人であったが、1893年(明治26年)には8182人、1894年(明治27年)には1万0077人にまで増大した[16]。特に、仲仕と呼ばれる港湾労働者が増加したが、上下水道、道路、住居、衛生、納税など、都市基盤整備が立ち遅れ、村政は混乱していた。そのような中、1894年(明治27年)6月、本町1丁目に役場の新築が着工され、7月26日の福岡県知事告示によって、文字ヶ関村は門司町と改称された[17]

門司町となった2日後に日清戦争が開戦し、1895年(明治28年)4月、下関(赤間関市)で講和条約が締結された。この日清戦争の間に、門司・下関両港は要衝の港として更に発展した。『門司新報』は、1896年(明治29年)1月の記事で、「今や六年前の漁村蟹(かい)屋たりし門司浦は全たく旧形を一変して四通八達の一市街と化し、更らに進んで開港場となり、市とならんとするに至りたり。」と書いている[18]

この頃、山口県赤間関市と門司町との合併論が唱えられ、1896年(明治29年)2月の『門司新報』では、山口県から内務省に門司併合の申請があったと報じられた。しかし、赤間関市政の混乱もあり、合併論は沈静化した[19]

1897年(明治30年)、門司町長前田益春が病気を理由に辞任すると、門司町会は、前田前町長を、町長当時の報酬を保障する名誉助役に推薦し、郡長を新町長に推挙するとともに、町長の年俸を480円から1200円に引き上げようとした。これに対し、町政の根本的改革を主張する改革派が反対運動を起こし、町会派と改革派の対立によって町役場の事務は停滞した。結局、前田前町長を名誉助役にする件は県の認可が得られず、両派の妥協により、臨時町会で後藤章臣前郡長を選出し、年俸は800円とした[20]
市制施行(門司市の成立)

1898年(明治31年)には、門司町の人口は2万5280人にまで増加した。10月3日、市制施行建議案論議のための臨時町会が開かれ、満場一致で、内務大臣に市制施行申請を提出することを議決した。申請書では、その理由として、急激な都市化への対応が必要であること、郡費負担が重く、これを都市形成に振り向ける必要があることを挙げている。その結果、同年12月28日、内務省告示第135号により、翌1899年(明治32年)4月1日より企救郡門司町を市とすることとされた[21]曽我部道夫福岡県知事は、明治32年2月、門司を市制地の資格ありと認定して上申した理由について、「外国交通の要路に当れる門司港は国を代表すべき地位にあるものとして斯く急に市制を施行する事とな」した、内務大臣もこの点に着目して告示を発したと説明している[22]。4月1日、市制が施行されると、門司町長後藤章臣が福岡県知事から門司市事務取扱を命じられ、当分の間、門司町役場跡を市役所に充てることとされた[23]。4月22日には、門司市制実施祝賀会が行われた[24]

5月31日に門司市会議員の二級選挙(二級議員15人を選出する選挙)、6月1日に一級選挙(市の直接納税額の79%を納める九州鉄道会社を選挙人として一級議員15人を選出する選挙)が行われたが、門司協会、門司同志会、田の浦協会、栄倶楽部といった政治団体が激しく争い、憲兵や巡査も取締りに乗り出した末、二級議員15人中14人を門司同志会が占めた[25]。次いで7月3日の市会で市長候補者を選出することとなった。当初は九州鉄道会社社長らに推され門司同志会の支持も得ていた松田和十郎に大勢が決していると思われたが、新たに組織された門司倶楽部が広沢哲郎を担ぎ、広沢派の示威運動に松田派が憤慨して市会を欠席するという異常事態の中、広沢が第1回選挙で市長候補者に選出された。広沢の市長就任は8月10日に内務大臣の裁可を得、8月18日に就任となった。その後、助役、市参事会、各区区長が置かれるなど、市の機関が一応成立したが、市長選挙のしこりから、区長・区長代理の多数が辞表を提出したり、市会に市長・助役・市参事会不信任建議案が提出されたりして、波乱のスタートとなった[26]
都市基盤の整備

1908年(明治41年)、広石に門司市役所庁舎が建設された[27]

門司市は、土木工事として、水道工事と門司港修築工事に力を入れた。人口が増加する一方で、飲料水が乏しかったため、企救郡中谷村大字頂吉(かぐめよし)を水源として、最初の工事は1909年(明治42年)に着手し、1911年(明治44年)に一部給水開始、1912年(明治45年)に竣工した。頂吉に貯水池、小森江の山腹に浄水場を設けた[28]。その後も拡張工事が重ねられた[29]

門司港修築工事については、1916年(大正5年)以降、大蔵省の予算で、東海岸の埋立て・岸壁の築造、防波堤の築造、上屋2棟の建築が行われ、1917年(大正6年)以降、門司市の予算で、旧門司沿岸の埋立て、岸壁・防波堤の築造工事が行われた。しかし、水深が限られており、岸壁には小船しか係留できないという問題があったことから、1919年(大正8年)から、内務省直轄工事として修築工事が行われ、1931年(昭和6年)3月に概ね竣工した[30]

また、市制施行以前に引き続く第2期の市区設計として、明治35年から大正初期にかけて、庄司町、畑田町、清滝、小森江などで、河川、橋梁、道路新設の工事が行われた[31]1923年(大正12年)5月には門司市が都市計画法の施行地に指定された[32]
大正時代の門司市「門司の歴史#大正時代」も参照大正時代の門司市の地図。

1914年(大正3年)には、門司港に入港する汽船トン数が神戸港横浜港をしのいで全国1位となるなど、門司市は貿易港として繁栄した[33]。また、門司港地区の桟橋通り周辺には、多くの銀行商社が集まり、道路にはガス灯がともり、「一丁倫敦」と呼ばれた[34]

桟橋通りや西本町付近は、門司築港第1期工事(明治24年竣工)で埋め立てられた地域、東本町は、第2期工事(明治30年竣工)で塩田を埋め立てた地域であり、埋立地内には、銀行・商社が集まる金融街のほかにも、カフェ、西洋料理店、遊郭などが集まる歓楽街が形成された。市内を九州電気軌道路面電車北九州線)が走り、市民の足として親しまれた[35]。東本町の埋立地の周辺には、第1船溜りと第2船溜りを結ぶ幅12メートルほどの水路(堀川)が設けられていた。堀川には、沖仲仕(港湾労働者)を沖の本船に送る多数の小舟が出入りしていたが、次第に汚れが目立ち始め、1933年(昭和8年)に埋め立てられて道路となった[36]

他方、沖仲仕らの生活は厳しく、路地裏には、木賃宿や粗末な納屋が立ち並んでいた[37]。沖仲仕らの不満もあって、1918年(大正7年)の門司の米騒動は大規模化し、小倉第12師団が出動して鎮圧する事態となった。
市域の拡大


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