長門_(戦艦)
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長門
1944年10月21日、ブルネイ泊地で出撃準備中の長門。後方に最上武蔵大和が見える。
基本情報
建造所呉海軍工廠
運用者 大日本帝国海軍
艦種戦艦
級名長門型
艦歴
計画八八艦隊計画
起工1917年8月28日[1]
進水1919年11月9日[1]
竣工1920年11月25日[1]
最期1946年7月29日戦後米軍原爆実験にて沈没
除籍1945年9月15日米軍接収
要目
排水量基準 39,130英トン
公試 43,580トン
満載 45,816トン
全長224.94m
最大幅34.6m
吃水9.96m
推進艦本式タービン4基4軸 82,000馬力
速力25.0ノット
航続距離16ノット/8,650海里[注 1]
後の記録では16ノットで8650浬
乗員1,368名(下士官1300名・士官68名)
兵装45口径41cm連装砲4基
45口径14cm単装砲18基
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃10基
7.7mm機銃3基
装甲水線305mm
甲板70+127 mm
主砲前盾457mm
主砲天蓋250mm
副砲廓152mm
特記のないものは改装後の諸元
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長門(ながと)は、旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍戦艦[2]長門型戦艦1番艦[3]
概要

いわゆる超弩級戦艦である。完成当時の1920年(大正9年)では世界最大であり、かつ最大口径の16.1インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は41cmちょうど)主砲と、当時の戦艦の中では非常に高速である26.5ノット(公試26.443ノット)の機動力を持つ高速戦艦で[4]、世界の軍事史や軍艦史にも大きな影響を与えている[5]。史上初めて41センチ砲を搭載する戦艦として建造され、竣工時世界最大・最速を誇った。また、連合艦隊旗艦を最も長期にわたり務め、日本海軍の象徴として長く国民に親しまれた[6]

2番艦の陸奥と共に各国海軍から注目され、大艦巨砲主義が最盛期をむかえていた列強海軍の熾烈な建艦競争にワシントン海軍軍縮条約による一定の歯止めを与えるきっかけとなったのも本艦であった[7]

完成後に連合艦隊旗艦となり、その任を陸奥と交代で務めた[8]第二次世界大戦後に有名になった大和型戦艦が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中には長門、陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として国民から親しまれている。『陸奥と長門は日本の誇り』といういろはカルタが作られた程である[9][10][注 2]

太平洋戦争開戦時の連合艦隊旗艦で、連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗していた。1942年2月、連合艦隊旗艦は大和に移った。以後、大和、武蔵に次ぐ主力艦として温存され、太平洋戦争終盤まで最前線に出ることはなかった。終戦時、横須賀にて中破状態で残存。稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。アメリカ軍に接収された後[注 3]原子爆弾標的艦に指定される[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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