長門型戦艦
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長門型戦艦

基本情報
艦種戦艦
命名基準旧国名
運用者 大日本帝国海軍
建造期間1917年 - 1921年
就役期間1920年 - 1945年
同型艦長門陸奥
建造数2隻
前級伊勢型戦艦
次級加賀型戦艦
要目 (新造時)
常備排水量33,800トン[1]
全長215.8 m
水線長201.7 m
660呎、229m[1]
最大幅28.96 m(90呎、31.32m[1])
吃水9.08 m (30呎、10.44m[1])
主缶ロ号艦本式重油専焼缶 16基
主機技本式オール・ギヤード・タービン 4基4軸
出力80,000hp
最大速力26.5ノット
航続距離16ノット/5,500海里
乗員1,333名
兵装41cm(45口径)連装砲 4基
14cm(50口径)単装砲 20基
7.6cm(40口径)単装高角砲 4基
53.3cm水中魚雷発射管 4基
53.3cm水上魚雷発射管 4基
装甲舷側 305mm(ヴァイタルパート部)
甲板 70+75mm
主砲防盾 305mm(前盾)、152mm(側盾)、-mm(後盾)、115mm(天蓋)
副砲ケースメイト装甲 152mm
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長門型戦艦(ながとがたせんかん)は、大日本帝国海軍戦艦の艦型のひとつで、八八艦隊計画により最初に作られた戦艦[2]長門(ながと)[3]陸奥(むつ)[4]の2隻が建造された[注釈 1]
概要

長門型戦艦は、イギリスから提供されたクイーン・エリザベス級戦艦の設計図を参考に、日本海軍が同艦型に大幅な改正をくわえ16インチ級砲を搭載した、国産の新型戦艦である[6]ユトランド沖海戦の戦訓を一部取り入れ[7]、砲熕や機関部は日本独自の設計であった[8]。基本計画は、艦政本部の山本開蔵造船大監が担当した[9]。後日、平賀譲造船中監も設計に加わり、改正計画に携わった[10]

本型は八八艦隊計画にもとづき、「長門」と「陸奥」の2隻が建造された[11]。1番艦の「長門」は呉海軍工廠で1917年(大正6年)8月28日に起工、1919年(大正8年)11月9日に進水、1920年(大正9年)11月25日に完成した[12]。2番艦の「陸奥」は横須賀海軍工廠で1918年(大正7年)6月1日に起工、1920年(大正9年)5月11日に進水、ワシントン会議に間に合わせるため1921年(大正10年)10月24日に竣工した[8]1922年にアメリカの雑誌で紹介された新造時の長門の画(説明文中に陸奥とされているのは誤り)。

長門型戦艦は建造時(1920年)[5]、世界最大・最強・最高速の戦艦であった[注釈 2][注釈 3]。日本国民にとって日本海軍の象徴と誇りであった[15][16]。当時の子供達も「大好きな戦艦は何か」と聞かれればこの長門型(特に長門)と即答し、写生するときの題材にも必ず挙がったと言われている[注釈 4]。長門型戦艦は就役後から大東亜戦争まで、幾度か改装を行いつつ、大きな問題なく運用された[8]。本型の成功は、日本の軍艦建造技術がほぼ世界水準に追いついたことを意味していた[18]海軍休日時代 (Naval Holiday) [19]、16インチ砲(40cm砲)を搭載した列強各国の戦艦7隻は世界七大戦艦[5](ビッグセブン)と謳われた[20][注釈 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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