長野稙藤
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 凡例長野 稙藤
時代戦国時代
生誕永正元年(1504年
死没永禄5年5月5日1562年6月6日)?
改名金吾(幼名)→稙藤
戒名青蓮院殿天覚常本大居士
官位従五位下宮内大輔
氏族長野工藤氏
父母父:長野通藤
藤定雲林院祐基細野藤光
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長野 稙藤(ながの たねふじ)は、戦国時代武将伊勢国戦国大名長野工藤氏14代当主。
生涯

永正元年(1504年)、13代当主・長野通藤の子として誕生。永正8年(1511年)から大永元年(1521年)の期間内に元服、10代将軍・足利義稙と父・通藤からそれぞれ偏諱を受けて稙藤に改名している。

享禄3年(1530年)、父が死去したため、家督を継いで14代当主となる。伊勢の支配権をめぐって、南伊勢の雄たる北畠晴具と争った。天文年間中期から後期にかけて、嫡男・藤定に家督を譲って隠居したものと思われるが、その後も藤定と共に軍を指揮し、政務を執っていた形跡があることなどから、藤定と共同統治を行なっていたものと推測される。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}北畠家との抗争はその後も続いたが、天文16年(1545年)からの北畠晴具の侵攻に次第に押され気味となった[要出典]。永禄元年(1558年)に北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した[1]。実質的に長野氏は北畠家に臣従したのである。

永禄5年(1562年)5月5日[注釈 1]、死去。享年58。永禄5年説をとるのであれば、同日に嫡男の藤定も死去しているため、北畠氏に暗殺された可能性が高い。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ただし、永禄4年1月8日1561年1月23日)死去という説もある。

出典^ 「北畠具教」『朝日日本歴史人物事典』


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